鋼のメンタル、インドヤマハの社長さんのお話(ONTOMO連載の補足)

ウェブマガジンONTOMOで連載中の、インドの西洋クラシック音楽事情のお話。
第2回では、「日本の楽器メーカーは、人口13億人超のインド市場にどう挑んでいるのか」というテーマで、インドでのキーボードの広がり、子供たちが楽器を習う動機の現状、そして昨年、インド、チェンナイでの現地生産をスタートしたヤマハ・ミュージック・インディアの社長、芳賀崇司さんのお話をご紹介しました。

IMG_4698

記事の中でも触れましたが、子供が西洋の楽器を習う大きな理由の一つとなっている、受験に有利だから、ということについて。
インドの受験戦争は本当に厳しく、社会問題化しています。以前、日本でもわりと人気がでたインド映画「きっとうまくいく」でも、受験や成績のプレッシャーを苦に命を絶ってしまう若者の存在が、ひとつの重いテーマとして扱われていました。
富裕層は富裕層で必死。さらに、カースト制度の職業の縛りから外れたIT産業が盛んとなったことで、低カースト層は、貧困の連鎖から脱却する一発逆転に賭けています。

ちなみに、こちらが件の集団カンニングで親が壁をよじ登る様子を報じたニュース映像。
その後、カンニング予防のために屋外で試験を受けさせられる青空テストのことや、マイクや受信機が縫いこまれているカンニング肌着が紹介されているのを見たことがありますが、最近はこのダンボールかぶってテスト、が、絵的には刺激的ですね。

人道的にどうかという否定はもっともですが、それはともかく、
厳罰をつくって守らせるという「ルールをつくり、一旦相手を信用してものごとをおこない、それでも守らない人は超絶ひどいやつだから、厳しく罰する」という思考回路ではないことが窺える例ですね…
つまり、抜け道があれば誰もがそれを利用する前提で、それができない環境を、まあまあの力技でつくっていく、しかも材料は手近な段ボール、っていうあたりが、インドらしい。たとえばインドでは、何かを並んで買う時、絶対に割り込みされたくないから、前の人に密着して立つっていうカルチャーもありました(最近は減ってるのかな?)。おじさんが体をぴったり密着させて長蛇の列を作っている光景、かつてはよく見かけ、絶対参加したくない、と思ったものです。手近なものと発想でなんとかしようとするメンタリティ、すごいなと思います(これはヤマハインドの社長さんのお話にも通じるところ)。

そして余談ですが、記事の中で出てくる、真ん中だけ調律するインドの調律師さんの話…先日、夫が調律師だという某ピアニストさんが、「家でモーツァルトを練習している時期は、夫は真ん中しか調律してくれない」と話しているのを聞いて、インド人の感覚!と思いました(モーツァルトの時代の鍵盤楽器は、今のピアノよりも鍵盤数が少ないですね)。

さて、そんなインドで奮闘している、ヤマハ・ミュージック・インディアの芳賀さん。
2017年7月に着工したヤマハチェンナイ工場の責任者として、またデリー近郊のグルガオンに拠点を置き営業面の中枢となっているヤマハ・ミュージック・インディアの社長として、2018年の春からインドに赴任されています。
自分、初代の社長から、代々のインド社長におおむねお目にかかってきているのですが、やっぱり今回の芳賀社長も、かなりメンタル強そうです。なんとかなるさ気質がすごい。

今回も例によって、こちらでインタビューのロングバージョンを掲載したいと思います。まさかのスキーが作りたくて入ったという体育会系スタートのヤマハ人生についても、少し振り返ってくださっています。

DSC_9405
芳賀崇司社長@チェンナイ工場の食堂

━いくつもあった候補地の中から、最終的にインドが選ばれた理由はなんでしょうか?

昨今、中国も人件費が上がっている中、これから生産のキャパシティを増やすならどこを拠点とするかという話が出たのが、2015年ごろです。これには、生産拠点の立ち上げを経験した人材が抜けてしまう前に、次の世代にノウハウを伝えておこうという考えもありました。
既存の工場がない国で、立地条件、労務費などを検討した結果、人件費が抑えられることに加え、やはりこの13億人という市場の大きさという条件が備わったインドを選ぶことになりました。将来的に中近東やアフリカでの製造の可能性を視野に入れるなか、インドで立ち上げを経験しておくのは良いステップになるだろうという思惑もあります。

━チェンナイのこの工業地帯には、日本の車メーカーの工場もたくさんありますね。

チェンナイはインドで4番目の大都市で、港があり、また、この地域には日本の銀行の資本が入っていることもあって、日本企業が入りやすいのです。大きな自動車メーカーや部品メーカーなどに、日本からの投資がかなり入っています。……主な投資先は二輪、四輪なので、私たちのような楽器製造というのは、ちょっと異様ですけれどね。

━異様(笑)。以前からインドではカシオのキーボードが広く販売されてきましたが、全て輸入ですもんね。キーボード市場のライバルとして意識するところはありますか?

キーボードをカシオと呼ぶというくらいがんばっていらっしゃるので、戦っていかないといけない部分もあるのでしょう。ただ私としては、そのために現地生産を始めたというより、全体の市場を大きくするためという意識が強いですね。お互い市場を取り合うより、カシオさんとも協力して、音楽人口を大きくしていく方向に進めたらいいなと思いっています。そうでなくては、将来がありません。

━インドの従業員の仕事ぶりはいかがですか?

スタッフ、工場のオペレーターとも、水準が高く向上心もあります。ただ、これは国民性なのかもしれませんが、本当にこちらが言ったことを理解してもらえているのかどうか、ちょっと不安になるときはありますね。自分たちに良いように解釈して進めて、我々の望んでいることとギャップが出てくることが時々あるかな。その辺は気をつけて見ていかないといけません。
インドの方が返事をするときの頭の振り方って、日本人からするとイエスかノーかわかりにくいですけれど(注:彼らはイエスの意味で小首をかしげます)、それに象徴されているというか…わからなくてもそうはっきり言ってくれないことが多いかもしれません。

━メーカーの製品ですから、各自で臨機応変に解決されては困るでしょうね。インドっぽいといえばインドっぽいですが。

そうそう、それが良い結果につながることもあるのかもしれませんが、品質確保の意味では勝手な判断をされると困るのです。とはいえ、市場に出て行く製品にはテストが行われますから、ヤマハ品質の確保という意味では問題ないでしょう。

━「それがいい結果につながるかもしれないけど」とおっしゃるあたりに、芳賀さんはインドで仕事をするのに向いていらっしゃるんだろうなと思ってしまいました(笑)。

ははは(笑)。まぁ確かに、何もかも押さえつけるのは良くないとは思ってます。実際、そいういうところにヒントが転がっていることもありますからね。固定概念があると、そこから外れたくなくなってしまいがちですが、これは、大きな間違いかもしれませんからね。外からの視点や、ひらめきは大事にしないといけません。

━インド向けの商品開発も、現地生産をはじめることで、日本の本社を通していたときより効率がよくなりそうだと伺いました。

そうですね、今後は現地の情報をどんどん物作りに反映したいと思っています。
他の会社では珍しくないのかもしれませんが、実はヤマハとしては、製造と販売が一体の会社というのは、このインドが初めてなんです。営業・販売と製造がツーカーの関係であることが、良い方向に作用したらいいなと期待しています。

━日本の本社からの期待感はどうでしょう? インドのビジネスはどういう位置付けにあるのでしょうか。

マーケットとしてはアメリカ、ヨーロッパ、日本が中心で、そこに中国が伸びてきている現状の中、次にくる場所として、インドは注目されています。
日本でもかつて、ヤマハ音楽教室が大きな役割を果たしました。すぐ売り上げにつながるわけでなくても、先行投資をして、インドでの音楽教育の推進、学校への働きかけを広げていかなくてはいけません。
いずれにしてもこのチェンナイ工場は、オール・ヤマハの支援のもと、現在に至っています。特に、既存の海外の工場の協力が大きな助けになりました。
例えば私が以前いたマレーシアの工場には、マレー人の他に、中国系、インド系のスタッフがいるのですが、実はこのインド系がタミルからの移民で、家ではタミル語を話しているんです。そこでこのチェンナイ工場では、そのインド系マレーシア人スタッフを駐在員として招き、通訳などとして活躍してもらいました。彼らはすでにヤマハのやりかたを理解していますから、助かりましたね。
日本人だけでなく、世界各地のローカル人材を活用する、良い事例になったと思います。

━日本企業にとって、インドはビジネスをしやすい環境だと思いますか?

それはちょっとどうかなぁ。やっぱりお役所関係のことが簡単ではないですよね。選挙のたび、州政府がどうなるかに大きく左右されたりするので。

━これまで海外での工場の立ち上げに携わり、いろいろな国の人と触れ合いながら楽器をつくってきて、今どんなことを感じていますか?

うーん、それは、私個人的にということですよね…。実は私、最初はスポーツ部門でスキーを作りたいという気持ちでヤマハに入ったので、まさか海外に行くことになるだなんて全く考えていなかったんですよ。
結果的にサラリーマン人生の半分以上を海外で過ごすことになりましたが、自分にとってはよかったと思います。日本の良いろころ、悪いところが改めてわかりますし。
あと、日本は少子化で平均年齢が上がっていますけれど、海外の生産拠点で仕事をしていると、若い人と仕事をする機会が多いのです。工場では自分の子供より若いスタッフもたくさんいます。伸び盛りの人と一緒に仕事ができることは、ありがたいです。
そしてやっぱり、毎日いろんなことがおきますね…。それはもちろん大変なんですけど、なんか、よかったなと思いますねぇ。

━大変な時は、どうやって乗り越えたのですか?

若い頃はただがむしゃらにやっていましたけど、経験を積むなかでうまく立ち回れるようになるというか。いいかげん…ってことでもないんですけれど、ポジティブに考えるようにすることで、乗り越えられるようになりましたね。明日は明日があるさみたいな気持ちでやっていますよね。

━そうじゃないと、やってられない?

やってられないですねぇ。なにごとも、ツボを押さえることが大切です。それは難しいことですが、経験やカンで、だんだんできるようになって行くのだと思います。本来押さえないといけないところをほったらかしていると、違う方向にいってしまったり、または全然進まないということになってしまう。そうならないよう、そこだけは冷静に見るように心がけてきたかな。

━インドの仕事に携わっているうえでの抱負はありますか?

まず工場の責任者としては、良いものをしっかり作っていくこと。ヤマハ・ミュージック・インディアの社長という立場としては、市場の開拓を進めいくこと。この両輪で軌道に乗せていきたいです。
あと、これはどこの国でも同じですが、インドに工場をつくった以上、やっぱりインドのためになることをやりたいですね。大げさなことはできないけど、例えば雇用の促進などで地元に貢献する。そうして、地域に根の張った工場であり、ヤマハ・ミュージック・インディアにしていきたいです。私たちの商品は、人を幸せに、豊かにするものですから。…会社からは、早く儲かるようにしろと言われると思いますけれど(笑)。
そして、縁があって私たちの会社に入ってくれた人が成長し、生活が豊かに、家族が幸せになってくれることが、私の一番の夢です。

***

以上、芳賀さんのお話でした。
個人的には、マレーシア工場のインド系スタッフがタミル人だったというミラクルに助けられた話にしびれました。
あと「大切なツボを押さえていないと、違う方向にいったり、または全然進まなかったりということが起きる。そこだけは冷静に見ている」というお話も、いろんな山を越えてきた芳賀社長ならではの言葉だと思いました。自分のやっていることに当てはめて、反省してしまいましたよ…。

【ONTOMO】
♣インドのモノ差し 第2回

日本の楽器メーカーは、人口13億人超のインド市場にどう挑んでいるのか

♣インドのモノ差し 第1回
インドの衝撃—1、2年でヴィルトゥオーゾに!?「ロシアン・ピアノ・スタジオ」の指導法

インドの「ロシアン・ピアノ・スタジオ」のお話(ONTOMO連載の補足)

この度、ウェブマガジンONTOMOで、インドの西洋クラシック事情にまつわるあれこれを書かせてもらえることになりました!
2018年に一年間、集英社kotobaでこのテーマの連載(第1回第2回第3回、第4回)をさせていただきましたが、今度の連載では、そこで書ききれなかったこと、その後追加で取材した話題を紹介していきたいと思います。

というわけで、書く場所を見失っていたいろいろなネタを嬉々として披露していくつもりなのですが、さすがに長くなりすぎて書ききれないことは、こちらのサイトにアップすることにいたしました。インドのクラシックにまつわる人々の生態に興味があるという奇特な方は、ぜひご覧ください。

さて、ONTOMO連載の第1回では、A.R.ラフマーン氏がチェンナイに作った音楽学校の中に設置されている衝撃的な音楽教室「ロシアン・ピアノ・スタジオ」の話題を取り上げました(以前、kotobaで掲載した話題の緩やかバージョンです)。
IMG_3325
とくにどこというわけではありませんが、チェンナイの街並み。南インドはまだルンギー(腰巻き)スタイルのおじさん多め

インド生まれインド育ち、「インド人初のモスクワ音楽院卒業生」だというクラスの指導者、スロジート・チャタルジー先生とは、一体どんな人物なのか? どんなポリシーを持って教えていると、生徒がこういうことになるのか?
ちょっと興味を持ってしまった…という方のために、チャタルジー先生との問答のロングバージョンをこちらに掲載します(ONTOMOとの重複箇所もあり。あちらの記事には、クラスの生徒の動画も紹介してあります)。
スタンダードな演奏法を見慣れている身からすると、いろいろ思うところもありますし、ダム決壊寸前レベルでみなぎる自信に圧倒される部分があるとはいえ、そこには、音楽の本質にまつわる核心をついた言葉もあり、日本のピアノ学習者にとって参考になる話もあるように思います。

ONTOMO内の記事に掲載しているクラスの背景、演奏動画などをご覧のうえで、どうぞお読みください!

3_DSC_9269のコピー
スロジート・チャタルジー先生

◇◇◇
━クラスに「ロシアン」とついているのは、ロシアン・ピアニズムと何か関係があるのでしょうか?

このメソッドは、ロシアの奏法にインスパイアされてはいますが、基本的には関係ありません。クラス名に「ロシアン」と入れたのは、私が学んだ場所へのオマージュです。
モスクワ音楽院で学び始めた若き日、いかに自分の奏法に問題があるかを思い知りましたが、音楽院の先生は奏法を一から教えてくれません。そこで私は、そこから長く苦しみに満ちた奏法の変革を行い、自分のメソッドを開発したのです。
インドは貧しく西洋クラシックの伝統がないので、ロシアや日本のように長期間の訓練を続けることは難しい。そこで私は、たった1、2年の訓練で、演奏技術と音楽家としての精神が身につくメソッドを編み出しました。アメリカでピアノを教えていた貧しい子供たちは、すぐに結果があらわれないとドロップアウトしてしまうことが多かったため、どうしたら早く「弾ける」ようになるのか試行錯誤を重ねる中で見つけたメソッドでもあります。世界の他のどこにもこんなことは起きていません。あなたが今日目撃したことは、特別なことなのですよ!
私の人間性は大変インド人的です。生徒のために200%の献身をしています。私は彼らのために生き、呼吸し、与え続けていて、生徒たちは私と深くつながっています。私の生徒たちの演奏が心に触れるのは、私がピアノを教えているのではなく、人生を教えているからなのです。

━ショパンなど、テンポを揺らした独特の解釈でした。テンポルバート、インテンポについてあなたや生徒さんたちはどうとらえているのでしょう。

テンポ感は、自然に感じるもの、自然と教えられるものです。私が細かく指示するということはありません。音楽は感情表現ですから、メトロノームのテンポでは奏でられません。
以前ある人が私に、ピアノ教育のノーベル賞が取れるのではといったことがありましたが、もちろんそんなことは起きません。それは、どんな国や地域にもそれぞれの文化があり、音楽について感じることに世界的なスタンダードはありえないからです。ラフマニノフやショパンについて、例えばロンドンの人が私と同じように感じるとは限りません。誰もが、自分の心にもっとも近いものをすばらしいと認め、受け入れるのですから、そこには違いが生じて当然です。

━とはいえ、クラシックのピアニスを目指すアジア人の中には、その音楽が生まれた土地の文化を知るため、ヨーロッパなどに留学する人も多いですね。そのことについてはどうお考えですか?

私の学生たちについては、留学は必要ないと思います。すでに美しいものを持っているというのに、どうしてそれを変える必要があるのでしょうか。ヨーロッパの教育にもまた美しいものがあるとは思いますが、まずは自分が何を求めているのか、何が好きなのかをはっきりさせなくてはいけません。
いずれにしても、私は優れた「アクター」ですから、ある瞬間はロシア人に、ある瞬間はポーランド人、フランス人になって、この教室を、世界のあらゆる場所にすることができます。私の生徒は、チェンナイのこの教室にいながらにして、あらゆる経験をすることができるのです。

━普段生徒さんたちは電子ピアノで練習されているそうですね。

はい、それについてはインドという環境の限界です。今この教室にある2つのグランドピアノは、支援者に寄付していただいたこの音楽院で一番いい楽器ですが、普段から私のパワフルな生徒たちが弾き続けていたらすぐにだめになってしまいます。もちろん調律師はいますからある程度の手入れは可能ですが、ピアノが古くなってしまった場合の修理は、ここインドでは簡単ではないのです。
私の生徒たちは、もちろんそれが最高の環境ではないけれど、喜んで日本のデジタルピアノで練習しています。でも、デジタルピアノであれば録音もできますし、メトロノームも入っていますからね。楽器も修理も安くすみます。
普段からアコースティックピアノで練習できていれば、みんなもっと良いピアニストになっていると思いますが、これについては限界です。
今日は日本からあなたが来てくれるということだったので、調律も入れて、特別にアコースティックのグランドピアノで演奏を披露しました。みんな久しぶりにこのピアノに触れたので緊張していましたよ。

━もともと、チャタルジー先生はどのようにしてピアノを始めたのですか?

私の父が若き日、1930年代にダージリンを旅していたとき、ある家から聞こえてきたピアノの音に魅了されて、結婚したらピアノを持とうと思ったそうです。そして、父が29歳、母が16歳のときに結婚すると、すぐにピアノを買いました。母は近所のカトリックの教会で、ドイツ人のシスターからピアノを習ったそうです。やがて生まれた私は、母の真似をしてピアノを弾くようになりました。熱心に練習する私をみて、両親はとても心配したようです。…というのも、私がピアノを演奏することは喜びましたが、生業とすることは歓迎していなかったから。子供には音楽家ではなく医者や弁護士を目指させたいという考えは、インドでは昔ほどでないにしても、今もあまり変わっていません。
ですが私は自立した人間だったので、状況を自分で切り開き、奨学金を得てモスクワに留学することができました。

━ロシアで得た最も大きなことは?

奏でる全ての音に魂がなくてはいけないという感覚です。一番重要なのは、楽器とのコネクションです。そんなコネクションをつくるためには、まずピアノにアプローチしなくてはならない。
例えば電車で美しい女性を見つけて、気になるけれどどうしたらいいのかわからないとき。彼女は自分を見ている。そういえば自分はオレンジを持っている…このオレンジをむいてそっと手渡せば、彼女は拒むこともなくオレンジを受け取ってくれるでしょう。そうして、どこにいくのと尋ねてみることで、コネクションをつくるのです。でもまずはアプローチしないといけない。オレンジを持っていて、それを渡そうとすることが、重要なのです。そこには多くの哲学があります。メカニカルでロボットのような感覚では、良い演奏ははじまらないのです。

━生徒さんたちは、指の動かし方も独特ですね。そこには何か意味があるのでしょうか?

ピアノは打弦楽器ですが、私のメソッドでは、ピアノは歌うことができます。骨なしの手が大切なのは、そのためです。そのために、たくさんの手のトレーニングを課します。もし手が固まっていれば、歌うことはできません。

━生徒さんには、小指を横向きに倒して使っている人もいますね。

そう、よく気づきましたね! これこそ私の特別なメソッドの一つです。小指は一番弱い指なので、そこにパワーを与えるためにあのように指を使うのです。
水の入ったバケツを、両手を正面に伸ばした状態で上に持ち上げようとしても、うまく力が入らないけれど、左右に肘を開いて持ち上げたらどうでしょう。力が入って持ち上がるでしょう? 私はサイエンティストなんです。

━身体の動きや表情もとても大きいですね。

演奏する際の見た目はとても大切です。演奏中、その顔の表情からは、痛み、喜び、勝利が伝わらなくてはいけません。すべての身体の動きも表現にとって意味があるのです。

━日本ではときどき、「顔で演奏するな」と言われることもありますが……。

間違って捉えてほしくないのですが、彼らにわざと顔の表情をつけろといっているわけではないのです。私のメソッドでは、あなたがご覧になった通り、演奏していると音楽への愛情や思いが表情に出てきてしまうのです。
まだ人類が言語を使っていなかった頃、彼らはボディ・ランゲージで意思を通わせ、子孫を残しました。ボディ・ランゲージの力は大変なもので、言語はそのずっとあとからできた……むしろ嘘をつくためにできたものと言っていいかもしれません。身体の表現は、嘘をつきません。私のクラスでは、生徒たちは教室に来たら必ず私にハグをするという決まりがあります。それによって、私からの愛情が伝わり、彼らの愛も伝わってくるからです。そこに嘘は通用しません。
顔の表情はボディランゲージの一部ですから、音楽から感じた作曲家の感情を顔で表せばいいのです。私のメソッドは、音だけに関することではなく、ヴィジュアルとサウンドによるトータル・エクスペリエンスを生み出すものなのです。
音楽には魂があります。演奏者はあなたの前でその魂を見せる。これは教会での祈りのように、ほとんど宗教的な営みです。だからこそ、私の生徒たちの音はパワフルなのです。

━こうした特別なメソッドについて、インドの他のピアノの先生方へのレクチャーは行わないのですか?

しません。多くのインドのピアノ教師たちは、100年前のブリティッシュ・スタイルで今も教えています。そういう方々と、私は戦っています。
以前、ヨーロッパやアメリカから来た先生たちがいましたが、もちろん私とはメソッドが違い、彼らも私のやり方を批判しました。おそらくそこにはジェラシーもあったのでしょう。ですが、音楽院の創設者、A.R.ラフマーン氏は私のメソッドのすばらしさを信じ、このクラスを救ってくれました。
誰もそう簡単に私のやり方を殺すことはできません。私は強いですからね。たくさんの生徒たちもいます。私が年老いたあとも、私の兵士たちが戦ってくれるはずです。私は彼らを強く育て上げましたから。

━インドには優れた伝統音楽の文化がありますが、西洋クラシック音楽にも親しむ必要があると思いますか?

先ほども話したように、私はとてもインド人的な人間です。西洋クラシックを勉強したからといって、西洋人のメンタルになるわけではありません。しかし他の国の音楽を勉強することで、より大きな人間になれるということは確信しています。
このクラスの最もすばらしいところは、それぞれが学ぶことによって人間として大きく成長できるという点です。私は歴史や地理についても多くのことを知っていますので、生徒にはロシアや中国、イギリスについて教えることもできます。私が教えていることは音楽のことだけではなく、総体的なことなのです。むしろ、音楽やピアノは口実といってもいいでしょう。
あなたは私の生徒たちが単にピアノを演奏しているのではないと感じたと思いますが、実際、彼らはピアノを通して人生を奏でているのです。
インドではまだ、西洋クラシックの文化は生まれたての子供のようなものですが、いつかロシアや日本のように豊かな伝統を持つようになるかもしれません。

◇◇◇

どうでしょう。チェンナイの教室をヨーロッパにしてしまう話とか、電車でオレンジをむいて渡しちゃう例え話とか、ショパンのリズムについての話とか、えええ、と思うところもたくさんあると思います。
わたくし自身、なにせギャラリーが多かったので、オブラート何重にも包みながら質問をするという場面も多くなってしまいましたが、一瞬驚くような発言も、よく考えるとごもっともな話でむしろこちらの先入観を指摘されているような気持ちになり、うなってしまいました。
まとめの言葉はONTOMOの記事に譲りますが、何曲か弾けるようになりたい大人のピアノ学習などで活かせるところがあるのではないかと私は思いました。
このインタビュー(というより、ほとんど公開トークショー)の終盤、嬉しそうに話を聞いていた親御さんの一人が、「こんな話が聞けるなんて、なんてプレシャスな時間なのだ……」としみじみつぶやいていたのが印象的でした。

ちなみに「私もチャタルジー先生に習ったらめちゃくちゃ上達しますか?」と聞いたら、「教えてもいいけど、今まで勉強してきたピアノの演奏を一度全部捨てないといけないよ。新しい誰かと結婚したいなら、前のパートナーとは離婚しないといけないでしょう?」と、わかるようなわからないような例えで、チャタルジーメソッドへの一途な愛を誓うよう求められました。
おそるべし、チャタルジーメソッド。ONTOMOの記事でもコメントを紹介した脳神経科学の古屋晋一さんをいつかチェンナイにお連れして、このクラスで一体何がおきているのか分析していただきたいという密かな野望を抱いています。

 

パペットショーどうでしょう

デリーでは今年も、学生時代にフィールドワークをしていたパフォーマーカーストのコロニーに顔を出してきました。相変わらずみんな元気そうでした。
(彼らについて紹介した過去の記事は、こちら

IMG_4762
こちらの中央のどっしりした男性が、コロニーの中で最も成功しているパフォーマー一座の長である、プーランさん。孫を両脇に抱えながら。

ピアノ雑誌の編集部時代、無謀にもインド特集を組んだとき、ピアニストの青柳晋さんを連れてこのスラムでパフォーマーと音楽的交流をしてもらったのですが、青柳さんが「京唄子師匠に似てるねぇ…」と言い出したので、プーランさんと話していると、ときどき唄子師匠のことが頭にちらつきます。
(そして、今改めてグーグルして見比べると、とくに似てないっていう…)

一家にリクエストされていたおみやげに加えて、子供が多いから日本のお菓子をと思って、この三角の小袋がたくさん入った柿の種のファミリーパック的なものを持っていったんです。
IMG_4768

すると彼ら、サモサだサモサだ!日本のサモサだ!とひとしきり盛り上がっていました。サモサっていうのは、こういう形の餃子風の皮にじゃがいものスパイス炒めが詰まった揚げ物です。形以外はまったく別物です。この人たち、三角紙パックの牛乳見ても、サモサだっていうのかな。

ところで彼らは数年前、デリーの政策で、もう60年も彼らが(勝手に占拠して)住んでいたスラムを立ち退くことを命じられ、700世帯ほど集まって住んでいたパフォーマーのカーストの家族たちは、何箇所かのキャンプにわかれて住むようになりました。キャンプといわれてどんな住環境なのか心配していましたが、むしろ衛生状態もよくなっていたし、警察署も隣にあって安全そう。本人たちも、クールな場所だぜと気に入っているようでした。

とはいえ、世界で一番有名なスラムと呼ばれた場所には、自然と世界のフェスティバルのオーガナイザーがスカウトに来ていて、それで仕事がなりたっていたのに、急に移動を余儀なくされたことでコンタクトが減り、一年ほどは仕事がなくて大変だったそうです。予期せぬいろんな問題が起こるもんだ。

IMG_3593

こちらは去年の写真から。結婚式開催ウィークだったので、みんな踊ってます。そのセンターで黙々とチャパティを焼く若奥さん。

 

彼らの伝統的なパフォーマンスは、この木製パペットでのショーなのですが、最近は仕掛けのある手の込んだ人形や、テレビからの仕事の依頼でセサミストリートのぬいぐるみを操ったりもします。

 

 

最近のホットな演目は、このビッグパペットによるショー。3メートルくらいあるでしょうか。ステージの横にスタンバっているだけで、子供はもちろん大人も集まってきてはしゃいでいました。

IMG_4975
(もし日本人の友達が一緒にいたら、じゃんがじゃんが的な…と言うところでしたが、残念ながらこのくだらない感想を分かち合える人は近くにいませんでした)

さて、わたくしが近年なんとか実現させようと思っている、このスラムでヴァイオリンなどの楽器を教えるプロジェクト(もともとパフォーマーなので、プラスワンのの技として取り入れて収入アップを狙う&天才発掘の企み)、実はヴァイオリンの先生を失って立ち往生中だったのですが、また新しいツテができて再スタートできそうです。

ちなみに先生が行かなかった期間、唄子師匠、一度子供達を集めて自分たちで弾いてみようと、私が置いてきたヴァイオリンを開けてチャレンジしてみたそうです。
「ギターとかは独学で弾く子も多いけど、やっぱりヴァイオリンは先生がいないとだめだね、3日で断念しちゃったー」
とのこと。むしろ3日も自分たちでやろうとしたことがすごい。

去年楽器を持っていった時も、いきなり見よう見まねで楽器を持って弾いてました。完全に初めて手にしたわりには、なんだかいい感じです。さすが。

さてこれからどんな展開になるか…新しい道を切り拓くために。がんばろう。

ヤマハがインド現地生産を開始、チェンナイ工場を見てきました

ムンバイまでは、インド楽器奏者の友人たちに助けてもらいながらなんの問題もなく過ごしてきましたが、チェンナイに夜遅く着いて、久し振りにインドあるあるのトラブルに遭遇。
レセプションで「今朝電話したけど出なかったから、部屋はキャンセルしたので、お前が泊まる部屋はない」っていわれるやつ…。

ここはひとつ頑固に譲らないぞ、でも怒っても仕方ないし…と思って悲しげな表情を見せたら、近くの同じ系列の別のホテルに部屋を用意してあげるから我慢してくれと。そしてご丁寧に、オーナー夫妻の妻が一緒にオートリキシャー(バイクタクシー)に乗ってついてきてくれるという安心のサポートっぷり。悲しげな表情がかなり効いたみたいです。
ただ、スーツケースもあってリキシャーの中は超ギュウギュウなのに、奥さんは膝に小学生の子供を乗せてついてきました。なんだろう、ちょっとしたアトラクション感覚なのか。

到着して早々あちこち連れまわされて疲れましたが、こういう優しいフォローは初めてです。まあそもそも、勝手にキャンセルするのがひどいんですけどね…。

そして部屋のバスルームに入ったら、トイレットペーパーが、立ち上がってなお見上げる位置にセッティングされていました。今まで見た中で最高です。
IMG_4693

チェンナイは南インドの大都市のひとつ。
言葉はタミル語なので、連邦公用語のヒンディー語は基本的に通じません。なので、困ったことがあるともうお手上げ…。

ヒンドゥー寺院の雰囲気も特徴的です。私はまだチェンナイは2回目なのですが、このカーパレーシュワラ寺院のプージャ(礼拝)の音が妙に気に入っていて、今年も見にいったりしました。

 

 

さて、ヤマハ・ミュージック・インディアのお話。

今年からインドで現地生産を開始、そのチェンナイ工場を見学してきました。まずはアコースティックギターとキーボードから、今後は音響機器の製造も予定しています。

IMG_4698

インドでアコースティック楽器の大規模生産をするのはヤマハが初めてだそう。
ただ、アコースティックピアノの現地生産の予定は、さすがに今のところないみたいです。
本社からの期待も大きいそうです…インドがヤマハさんの中で期待されているだなんて、なぜかしら、他人事ながら嬉しい。

DSC_9394のコピー
この工場では、積極的に女性を雇用しているということで、工場内にはたくさんの若い女性スタッフの姿が見られました。女性が外で働きにくいこのインドの地で、すばらしいこと!中心地から車で1時間半ほどのこの工業エリアには、日本の企業の工場がたくさんありますが、ほとんどが自動車関連なので、女性は働きにくいんだって。

食堂も完備で、朝昼ごはんが出るそう。海外の生産拠点あるある的な手口(?)みたいですが、朝ごはんを出すと、出勤をサボる人が減るらしい!

DSC_9405
社長の芳賀崇司さんは、これまでにも海外の生産拠点のお仕事を何箇所も経験しているそうです。(ランチをオススメするポージングの写真に付き合ってくださった、優しい芳賀社長)

いろいろとお話を伺いましたが、さすが素敵ななんとかなる精神の持ち主であります。2008年の開設以来、歴代のヤマハミュージックインディア社長にお目にかかっていますが、みなさんそんな感じ。そうじゃなきゃインドの社長なんてできませんよね…。

芳賀さんは今回、次の工場は(世界の中の)どこにするか、その段階から携わっていたそうです。インドでのビジネスは、法的な手続き関係でものすごく時間がかかることが多いですが、今回は新記録な勢いでスピーディにことが進んだみたい。それには、モディ首相のメイク・イン・インディア政策の流れもあったと思いますが、ちょうどチェンナイ州が、外資企業の受け入れ手続きがのろすぎるという評判がたってしまったのを払拭しようとしていたタイミングだったからだとか。幸運でしたね。

芳賀さん、ヤマハのものづくりの未来はもちろん、地元の人たちへの貢献も大切にしていて、かっこいいなと思いました。いろいろと詳しくお話を伺いましたので、のちの記事をお楽しみに…。

部品の巣窟的空間、ムンバイの楽器修理工を訪ねてみた

去年ヤマハ・ミュージック・インディアの方からその存在を聞いて、会いに行ってみたいと思っていた、ムンバイの楽器修理工の家族の工房。ヤマハの現地スタッフ、アンシュマンさんに案内していただき、ついに訪ねることができました。

すごいすごいとは聞いていましたが、なかなかの穴蔵っぷり。細い路地を入り、半地下に下ったところに工房はありました。

DSC_9373のコピー
今は三兄弟で職人をしていて、とくに長男のムンナさんはこの狭い部品の巣窟風スペースに座って、ひたすら作業をしています。ムンナさん、長いルンギー(インドのおじさんがよく着ている腰巻き布)をしてなくて足が写っちゃうって気にするしぐさが、かわいらしかったです。でも、作業中のワイルドな手元の動きはかっこいい。

DSC_9378のコピー
(左のお二人が、次男、三男。一番右はヤマハのアンシュマンさん)

主に修理をしているのは管楽器。インドでは結婚式にウエディングバンドを呼ぶ習慣があるので、管楽器の需要はかなり大きいのです。

楽器修理工を始めたのは、彼らの父親だそう。もともと車の修理工をしていたところから、興味を持って路上の楽器修理屋で技術を習得。その技術が息子たちに伝えられて、今につながっているようです。つまり、すべてが口頭伝承的な技術。しかも起源もよくわからない。
難しい修理の依頼も、経験と三人の知恵(あと、ネットの情報)でなんとかしちゃう。輸入品でしかない部品は、自分たちで作っちゃう。

インドの暮らしの中では、いろんな場面で、壊れた何かが、ひらめきと経験(その場しのぎともいう)で修復されているのを見ます。いわば、そのプロフェッショナル版ですね。あと、今や機械で作られているのしか見ないものがハンドメイドで作られていたり。糸車をまわすガンティー的思想が受け継がれている…というとすごい感じがしますが、単に彼らはずっとそういうふうに生きているんですよね。

もう15年も前の話ですが、インドで自転車のスペアキーを作ろうと思って鍵屋さんに行ったら、目視で確認しながら、普通のヤスリで、手削りでスペアを作ってくれたことを思い出します。それで、これがちゃんと開くんですね。ちょっとひっかかるけど。

ちなみにヤマハさんは数年前、この我流リペア職人さんたちに、楽器修理についてのワークショップを行ったそうです。今までそんな話をもちかけた楽器メーカーはヨーロッパにひとつもなく、ヤマハさんが初めてだったんですって。
ヤマハの楽器が修理に持ち込まれることももちろんあるそうですが、
「やっぱり他のメーカーと比べて品質が良い」とのこと。
(通訳で入ってくれていたアンシュマンさんが、ちょっと盛り気味に説明してくれて、インド人スタッフのヤマハ愛ステキと思いました!)

この場所の写真だけ見せてもらっていた時は、労働環境が厳しい作業場なんじゃないかと勝手に思っていたんですが、三兄弟、とってもこの仕事を愛しているようでした。素敵な職人魂を感じる。(そして、実際けっこう儲かっているっぽい)

やっぱりなにごとも、行って見てみないとわからないものです。

ザキール・フセインさんのタブラ協奏曲

ムンバイに再び戻ったあとは、シンフォニー・オーケストラ・オブ・インディアの春シーズン定期公演を聴いてきました。お目当ては、タブラ奏者のザキール・フセインさん作曲によるタブラ協奏曲「ペシュカール」。

開演前、ホワイエを見渡すとたくさんの人が飲んでいた、冷たいミルクコーヒー。サモサとのセットで100ルピー(150円くらい?)という、コンサートホールなのにそこらへんのカフェより断然お安い値段で購入できて、しかも辛いと甘いでおいしい。ムンバイ のジャムシェッド・ババ・シアターでコンサートを聴く機会があったらぜひ試してみてください。甘辛のコンビネーションに夢中すぎて、写真は撮り忘れました。

ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」がおわると、台がセッティングされて、タブラを持ったザキールさんが登場。
タブラソロに始まって、ティンパニ、低弦、ファーストヴァイオリンがインドらしい旋律をつぎつぎ受け渡していきます。西洋の語法の中で音楽を育んできた人では書かないだろう旋律がからみあう。怒涛のタブラの音の波、管との掛け合いがかっこいい。

演奏後は、客席総立ちでした。さすがスーパースタータブラ奏者。みんな大好き。
DzlTSj3WoAAEzvN

日本でもこの曲を公演できたらいいのに…。

どうですか、指揮者のみなさん、そして日本のオーケストラ関係者のみなさん!!
ちなみにこちらは2015年の演奏の動画です。

私がインド古典音楽を生で聴く経験はまだまだ全然浅いのですが、それでもザキールさんの演奏は、技術はもちろん、音がすごく特別なんだなということがわかります。
先日、ザキールさんのお弟子さんであるユザーン氏のプチ解説を聞く中で、その音作りの精神のお話がちらりと出て、他のインドの有名タブラ奏者とザキールさんの音の印象が違うように思うのはそういうわけか…と納得しました。

SOI全体の演奏に関しては、やはり、海外のオーケストラで活動する外国人臨時メンバーばかりだけに、個々の技術は一定レベル以上で普通にうまい。いつも一緒に演奏していないからアンサンブルの面が少し大変そうですが、スケールの大きな演奏が特徴です。

ところでちょっと関係ないですけど、ユザーン氏と環ROYさん、鎮座DOPENESSさんが最近発表したこの曲とミュージックビデオ。

音もかっこよく、なんだか(いい意味で)様子がおかしくて笑っちゃうと同時に、インド古典音楽、そしてそのほかの音楽の歴史も知ることができて、とても素敵です。なんなんでしょうこのセンス。いい仕事してますね…。

そしてこのユザーン氏と、サントゥール奏者の新井孝弘氏による、毎年恒例、インド古典音楽のツアー、今年も開催されるそうです。新井くんは、今年ムンバイであったら、またしっとりとインド人度が増していました。いつか本当にインド人になってしまうかもしれません。
二人が発するインドの匂いを嗅ぎたい方は、お近くの会場でぜひご体験ください。

公演スケジュールは、こちら。

(最後はインドでいつもお世話になるお二人のコンサートのお知らせでした。)

インド人チェリストが祖国に作った素敵な学校に行ってきた

ここまでのインドのいろいろを、少しずつ紹介したいと思います。

到着した日に向かったのはタージマハルホテル。チャローインディアというインド料理探訪プロジェクトのため来印中の東京スパイス番長のみなさんがお食事中ということで、水野さんを訪ねて合流です。
今年のテーマはアチャール(インドのお漬物的なもの)らしいので、成果を見るのが楽しみ。アチャールって本当においしいですよね。梅干し好きの私としては、インド料理においてなくてはならぬ付け合わせ。

タージマハルホテルといえば、11年前に大規模なテロがあった場所です。あれ以来、セキュリティチェックがとても厳しい。
そしてロビーには、1852年から1872年の間に作られたというスタインウェイのピアノがあって、インド人ピアニストのおじさんがポロポロ弾いてました。植民地時代の置き土産的な存在。
 IMG_4516

インドではたまにこういうアンティークのピアノに出会います。去年もコルカタでシタール奏者のインドの方のお宅にお邪魔したら、家にベーゼンドルファーのグランドピアノがあると言われてびっくりしました。(しかも、その方自身は弾けないらしい)

翌日は早速コルカタに移動。

浜松コンクールでお世話になった、ピアニストの小川典子さんにご紹介いただいた、ロンドン在住インド人チェリストのアヌープ・クマール・ビスワス氏が、故郷のコルカタに作ったMatheison schoolを見学してきました。

IMG_4560 DSC_9323のコピー

犬が寝てますし、牛もいます。

牛は飼ってるのかと思ったら、学校のまわりに柵がないからどっかの家からいつも入ってくるらしい。

そもそもどうしてこの学校に行くことになったのかというと。
ある日小川さんがツイッターで突然(?)、「友人のチェリストのパーティの様子」といって写真を送ってきてくれまして。
見たら、どう考えてもインドのパンジャービーダンスの様子なんですよ。
お友達は、インド人ってことですか?と尋ねたところ、そうであると。
(最初は、インドにどハマりしているイギリス人のパーティなのかと思って、小川さんには変わったお友達がいるもんだなと思ってしまいました、すみません)

さて、こちらのインド人チェリスト、ビスワスさんは、コルカタの貧しい家に生まれました。しかしその瞳の輝きに何かを感じたイギリス人の神父さんが、教会の学校で彼にチェロを教え、ロンドンに留学させたのだそう。

さて、学校について。

学校には、そのイギリス人神父さんの名前が付けられています。全てが無料の全寮制、貧困層の中でも特別に貧しい家庭の子供のみ入学可能。教会を通じて入学の希望者がいると聞くと、家庭に面談にいって、本当に貧しいのかを確認するんだって。

草原の中にポツンと小さな建物があるところからスタートして25年。基本的にビスワスさんが私財をつぎ込んで作ったもので、多くの困難を乗り越えてここまでになった努力の結晶だそうです。
今は50人ほどが勉強しています。現在校舎を増設中で、もっと多くの子供を受け入れられるようにしていくつもりとのこと。すごいぞビスワスさん!

学校の生徒たちはみんな弦楽器を習っています。

IMG_4590 IMG_4605

訪ねた日、スクールコンサートを開いて、子供たちのオーケストラの演奏を聴かせてくれました。全員音を真剣に鳴らしている感じが伝わってくる、良いオーケストラ。インドのコルカタにこういう子供たちが育っていたとはとびっくりしました。

ビスワスさんは、神父さんから受け取ったものを今度は自分が次の世代に与えていく番だと、活動を続けているようです。

これまで私もいろいろなプロジェクトのことでインドのお金持ちさんに接してきましたが、あまり私財を投じてこういう活動をしようという人はいないんですよね…国民性なのか、宗教上の感覚なのか。ビスワスさんは、お電話で話した明るくグイグイ来る感じこそさすがベンガル人の人だなーと思いましたが、活動を知るほど、なんてすばらしい方なのだ!と思ってしまいました。

生徒たちはナチュラルに礼儀正しく、明るくどこか控えめで、すごくいい。

子供達の集合写真を撮ろうとしていたたら、犬がグイグイ来ました。
このあと彼は、しっかり集合写真に一緒におさまっていました。

ちなみにこの日ビスワスさんはもうロンドンに帰っていてご不在。後日詳しくご本人にお話を聞くことになっています。楽しみだ。

インドのスラムでオーケストラはできるのか

インドから戻ってだいぶ時間が経ってしまいましたが、
帰国後の仕事の山の向こうがうっすら見えてきたので、少し記事をアップします。

今回のインド滞在の終盤、フォーク・パフォーマーたちのパフォーマンスの撮影をしました。
先の記事で紹介した、「世界で最も有名なスラム」に暮らす、
パペッティア・カーストの人たちのパフォーマンスです。
本当はコロニーの見晴らしの良いルーフトップで、明るい太陽の下撮影の予定でしたが、
なぜか季節外れの大雨が2日間続き、仕方なく、NGOのオフィスを借りての撮影です。

P1000175
(街はどこもかしこも水はけが悪いので、ビッシャビシャ。
こういう日のスラムは、さすがに足を踏み入れるのに勇気のいる大変な状態になっています)

彼らラジャスターンのパペッティア・カーストの操り人形は、
世界で一番操るのが難しいストリングパペットといわれているそうです。(ほんとか?)


こちらはダンサーのパペット。
ストリートでインドのオヤジ相手にショーをすると、
腰振りダンスのくだりで「フゥ~!!」とか言って、盛り上がります。


こんなパペットもあります。アクロバット師のパペット。
ちょっと最初ヒモからまっちゃってますけど。操り手が若い息子なもんで。

こちらは父のほうのパフォーマンス。

この他にも、のけぞって頭をよくわからないところに乗せる動きなどもあり、
かなり複雑なつくりである模様。
操るのが難しいというのも、うなずけます。

この日は、現在デリーに住んでいるヴァイオリニストの高松耕平さんが
ヴァイオリンを持って、パフォーマーたちに会いに来てくれました。
高松さんはインドが心地よく、本当に好きすぎて、
通っていた東京音楽大学をやめて、インドで暮らすことにしたのだそうです。
今はデリーのパハール・ガンジにあるレストランで、
(バックパッカーには有名な、安宿のルーフトップに昔からあるレストランです)
夜になると演奏をしているそうです。
なんだか毎日めちゃくちゃ楽しそうでした。

P1000081
(昼間のお仕事外の時間に撮影しました。仕事仲間たちに凝視されながら)

実は今回、デリーで腕の良い西洋クラシック楽器奏者を探していた私は、
(デリーには音楽学校があると以前書きましたが、
正直言ってその先生たちは、ちょっといろいろ大変…)
某ルートで高松さんを紹介していただき、その演奏を聴かせていただいて、
救世主が現れた!と思ったのでした…。
というのも、このパペッティアの青少年たちに、
西洋クラシック楽器の生のかっこいい演奏に触れてもらいたかったからです。

ひとしきり、彼らパペッティアのパフォーマンスが終わって、
いよいよ高松さんがヴァイオリンを構えます。
興味津々で近寄ってくる若者たち。
P1000225

最後にはこんな感じで即興での共演まで!
クラシックの演奏も聴かせてほしいとリクエストして、
ショパンのノクターン第2番のヴァイオリン版を演奏してくれました。
みんなじっくりと聴き入っていました。
なにかすばらしいことが起きる最初の瞬間だったように思います。

実は私には、かねてから考えているプロジェクトがありまして。
それは、このパフォーマーのスラムで、ユース・オーケストラが作れないかということ。
もちろん、西洋クラシック楽器によるオーケストラです。

私は彼らの伝統的なパフォーマンスや音楽がすばらしいものだと思っているし、
西洋クラシックを押し付けるつもりはまったくないのですが、
彼らは都会に移り住んで新しいものをどんどん取り入れ、
不可触民カーストという条件を飼い慣らし、アートで生きていこうとしている人たちなので。
もし彼らに関心があるなら、西洋クラシックをもう一つの生業とする機会を作れば、
なにかとてつもなくおもしろい芸術が生まれるのではないかと。

貧しい地域での音楽を通じた教育プログラムというと、
ベネズエラのエル・システマが思い浮かぶと思います。
それに対してこの事例が違うのは、もともと音楽的素養のある青少年が対象だということ、
彼らには人前に立つパフォーマンスの仕事で身をたてようという意欲があり、
それ以外の選択肢はないに等しいため、必死でもあるということです。
マイナスの意味での違いもあります。
インドの音楽は西洋クラシックの音楽と根本的なものが全然違うこと、
クリスチャンではないので、中南米の事例と違って西洋の宗教曲に触れていないことなど、
もういろいろ。
(ただ、実は彼らはアウトカーストである立場から脱するため、
ひっそりと改宗ムスリム、またはクリスチャンとなっていることもあります。
なので、ヒンズーの神々とキリスト像を並べて飾っている家もあるという…びっくりします)

実は今回のインド行きは、現地で継続的に楽器を教えられる先生がいるか、
さらに、彼ら自身にどれだけのやる気があるかをリサーチする、という目的がありました。

ヴァイオリンの音にじっと聴き入る少年たち、
孫が演奏するための楽器さえ手に入れば…と繰り返すおじいちゃん、
「俺だって今から習いたいくらいだ!」と言うパパ世代の男性たち。
これは、インドで西洋クラシック音楽が本格的に流行り出す前に
絶対に形にしなくては!と、決意を新たにしたのでした。

今回インドにいた2週間、なにもかもうまくいって疲れを疲れと感じない日もあれば、
収穫がなくてなんのためにこんなことやってるんだろうなぁと思う日もありました。
今やっていることは、誰かのためになるのか、何かが残せるのか。
自分自身に問いますよねぇ~。
でも、何年も考えてやっぱりやろうと思うことなのだから、
自信を持って、進めようと思います。
成果が出なくて残念、ですますわけにはいかないので、形にしたいと思います。

こわいデリー

インドというと、最近は女性への性的暴行事件が目立っていて、怖いですね。
こんな最中にインドに行くというと、クラシック音楽関係の方たちからは、
信じられねぇ!という反応をうけることが多いです。
(インド関係の人たちは、ふーん、いいねいいね!で終わりですが)
先日たまたまインタビューのコメントでやりとりをしていた某ジャノフ君は、おもむろに、
「ところで、どうしてわざわざそんな大変なところに行くの?
旅行するならもっと素敵なところに行けばいいじゃない。たとえば、別府で温泉に入るとか」
と、一気に身近すぎる代替案を提示してくれました。
(それにしてもなんで別府なんだろう。好きなのかな。…よくわからない)

それはさておき、今回は今までの6回のインド滞在の中で、
初めてなにも盗られず、どこも触られずに(痴漢にあうという意味です)
帰ってくることができました。
これまでは行くたびに何らかのトラブルがありました。
すれ違いざまにがっつりポケットに手をつっこまれたり(何かを盗もうとしていたらしい)
道端でおしりを触られたり、バイクで追い越しざまに胸部を触られたり。
思い出すだけで腹立たしいことがたくさんあります。
P1000091

デリーでは2014年に2069件のレイプ事件が報告されているというので、
被害届が出されているだけでも、1日に5~6件起きているということになりますね。
被害者は、5歳の少女から、70歳を超える高齢の女性まで、幅広い年齢にわたるとのこと。

今年に入って日本人が被害にあったというニュースも続きました。
街で知り合った自称ガイドについていって巻き込まれたパターンだったようですが
(犯人が絶対に悪いですが、少しでも長くインドにいた経験がある人なら、
ついていっちゃだめでしょ~と思うパターンでもある)、
実際には大変に卑劣な手口で仕掛けてくることもあるので、この場合は本当に怖いです。
最近の強盗は、エアコンの室外機から睡眠薬を流し込んでくる、なんて話も聞きました。

ただいろいろなところで指摘されていますが、インドのレイプ事件の件数が増えているのは、
そのことを届け出るインド人女性が増えたこと
(それでも、未だ被害者家族が報復をうけるとか、自殺してしまう例もあるようです)、
また、届け出を警察がちゃんと受けとるようになったことも大きいと思われます。

とくにこの警察の話については、実体験からも言いたい。
かつて宿で、風呂場を覗かれたとき。
びしょ濡れのまま服を着て、隣の部屋のインド人3人組の部屋のドアを蹴っ飛ばし、
全員ロビーに下ろして尋問しましたが、やってないの一点張り。
警察を呼ぶと言ったら、宿のスタッフに、
そんなことをしても警察が彼らから少しお金を受け取って帰って行くだけたから
意味がないのでやめなさい、と、説得してくるわけです。

インドで一番ひどい痴漢行為をしてきたのも、警察のおっさんでした。
ほっぺたをべろべろ舐められた気色悪さは、一生忘れません。
このまま警察に行って今あなたがしたことを言うよ!と言ったら「言えばぁ~?行こう行こう!」と言われて、この国の警察は終わってる…と思いました。もう10年も前の話です。
ちなみにその警官は一緒にいたインド人の友人にいちゃもんをつけ、バシバシ棒で殴り、
お金を巻き上げたら満足して去っていきました。ひどいね。
今なら何かしら仕返しする策も考えられたと思いますが、あの頃は何もできなかった。

それに比べて、自分も歳をとったせいか、
またお金をかけて安全な策をとれるようになったせいもあってか、今回は平和でした。
周りのみなさんの気遣いのおかげもあります。
遅くなったときは、遠回りでもホテルまで一緒に来て送り届けてくれました。

やむを得ず夜に外を移動しなくてはならないこともあったので、
そのたびにどんな対策があるか、考えたものです。
・スタンガンや催涙スプレーなど護身グッズを常備する、
・タクシーなどに乗るときは、後部座席でシュッシュ言いながら
シャドウボクシング的な動きをしてみる(強いのかも、と思わせる)、
・鼻髭をつける(小さいおじさんだと思わせるか、
それが無理にしても、とりあえず頭おかしいとは思われるだろう)、
・ずっと変な咳をしている(変な病気うつるかもと思えば襲われないだろう)
などなど…。

しかし一番いいのは、やはり護身術を身に着けて本当に強くなることだろうなと思いました。
次のインド行きに備えて、何か本気で勉強してみようと思いました。
そして、タクシーやリキシャに乗る時は、戦ったらなんとか勝てそうな運転手を選ぶと。

10年前、研究で滞在していたとき、
道端で卑猥な言葉をかけられたり、触られたりするたびに、
この社会では、どうしてこういう人が発生してしまうのだろうかと考えたものでした。
彼らとまったく文化の違うハリウッド映画が多く流入することで、
外国人の女性はオープンで、少し触られるくらい気にしないと思われているのかもしれない。
そして彼らの欲求だけは刺激されて、日常の中で満足を得られる場面がないというのが、
その原因となっていそうだと思われました。
女性を弱い立場のものとみる価値観も、もちろん影響しているでしょう。

そんな中、最近思うのは、この頃はインド映画も昔よりだいぶ過激になったなということ。
インド人女優さんの衣装もけっこうセクシーだし、ラブシーンもかなり際どいところまで見せる。
昔は、口づけをしそうになった瞬間、影像が別のものに切り替わるみたいな感じでしたけど、今は、そのままいく映画もよく見るようになりました。
少し過激なくらいじゃないと売れないのかもね、とは、インド在住の友人の談。

それでいて、多くのインドの人にとって、結婚は基本アレンジ・マリッジ、
結婚するまで女性といちゃつくことはゆるされないという状況は変わっていません。
(一部はだいぶオープンになっているようですが)
そういう中で屈折した欲求不満がますますつのっていくこともあるんだろうなと、
ボリウッド映画の中で、やたら脱いで腹筋を見せる素敵なインド人男優、
くびれと谷間を強調した衣装を着た、超綺麗なインド人女優さんを眺めながら、思うのでした。

実際には、本当に複雑な社会の状況が影響して起きていることですから、
こんな簡単な分析もどきで説明のつくことではありませんが。

インドにおける西洋クラシック教育事情

インドにはプロのオーケストラがひとつだけあります。
ムンバイを拠点とする、シンフォニー・オーケストラ・オブ・インディア(略してSOI)。

ただ、団員のほとんどは東欧などの国々から来た外国人奏者で
(出入りはあるものの、日本人の奏者もいます)
インド人の演奏家はとても少ないです。

それでも、ズービン・メータの出身地でもあるムンバイは、
インドの中では比較的西洋クラシック音楽が聴かれている都市です。
滞在中、ユーリ・シモノフとSOIの公演があったので聴きに行こうかと思ったら、
なんとチケットは完売でした。びっくり。

一方の首都デリーでは、あまり西洋クラシックの文化が根付いていません。
何年も前に、日本でデリー交響楽団を聴いた覚えがある方もいらっしゃるかもしれませんが、
(アジア・オーケストラ・ウィークで演奏していました。
ステージに出てから、パートごとのチューニングにだいぶ時間がかかっていた記憶…)
このオーケストラはその後、演奏家が足りなくて、解散してしまったそうです。
来日当時の時点ですでに、軍楽隊や教師の寄せ集めだと言っていた記憶があります。

そんな状況の中、インドで新しい道を切り開こうとしている企業のひとつが、ヤマハです。
2008年に現地法人「ヤマハ・ミュージック・インディア」を設立し、
インドでの販路を徐々に拡大しています。
もちろんすでにキーボードなどでは成功していますが、
今後アコースティックピアノをより多くの人に親しまれる楽器としてゆくことが課題のようです。
そのため、インド人の調律技術者の育成も着実に進めています。

現在ヤマハ・ミュージック・インディアの社長を務めるのは、望月等さん。
あえてそういう方が選ばれているのか、くっきりと濃いお顔立ちで、
インドの人々の間に混ざっても、馴染んでいます(残念ながら写真はありません)。
やっぱりお顔が濃いめのほうが、インド人からなめられないんだろうなぁ。
お訪ねしたときはちょうど浜松からヤマハのインド担当の方々がご出張中で
みなさんにいろいろお話を伺うことができました。
どうやってこの市場をさらに切り拓いていくか、アイデアは尽きることなく、
この何でもアリでありながら同時にとても頑固なインドという国で挑戦することは、
本当に楽しい(そして大変な)お仕事だろうなと思うのでした。

さて、一方話は変わって、1966年からデリーで西洋クラシック楽器を教えている、
「デリー・スクール・オブ・ミュージック」。
P1000152
デリー・ミュージック・ソサイエティという団体が運営している学校です。
現在この学校には1000人を超える生徒がいて、
しかも最近は、とくにピアノと声楽のクラスについて、
何ヵ月も入学の順番待ちをしている人がいるとのこと。

P1000149
(ディレクターのジョン・ラファエル氏。
手前にあるファイルは、入学のウエイティングリストだとか)

ラファエル氏を訪ねてみると、ちょうどお金持ちそうな両親と小さな息子が、
ピアノコースの入学について相談をしているところでした。
ご両親の様子を見ていて、
ピアノのことは全然よくわからないけど、どうしても息子を早くクラスに入れたい、
という熱心な気配が伝わってきました。
今ここで学んでいる生徒たちは、やはりハイクラスの家庭の子供が多く、
教養の一環または趣味として西洋クラシックの楽器を学んでいるとのこと。
クラシックのトラディショナルな作曲家の作品は勉強させようとしているけれど、
どうしても、若者はボリウッドなどのポップソングを演奏するほうに行ってしまうそうです。

あと、やはり大きな問題となるのは良い先生の確保。
ビザの問題などで外国人をフルタイムで雇うのは難しいため、インド人の先生がほとんどで、
高い質を保つのはとても大変だということです。
実際、クラスを覗いてみると先生はみんなインド人で、
正直、なかなか大変そうだなと思いました。
Trinity College の試験がとても人気で、生徒たちはほとんど受けているそうです。
ラファエル氏によれば、今の子供が西洋クラシックの楽器を勉強している第一世代。
親たちはこうした音楽がわからないから、
子供が家で練習していても何もサポートできないし、むしろ関心すら持つことができない。
それでも、今の子供が親になった時、
インドで本当に西洋クラシックが聴かれる日がくるだろう、とおっしゃっていました。

西洋クラシックがインドで流行らないのは、
インドの固有の音楽が強いためだと多くの人が言います。
今はまだ西洋クラシックの楽器は、ハイソサイエティの優雅なたしなみとしてしか
見られていないかもしれません。
ボリウッド映画のダンスシーンでも、後ろのエキストラたちが
やたら無駄に西洋クラシックの楽器を演奏している動きをしていることがあります。

西洋クラシックが唯一のユニバーサルな音楽だとは全然思いませんが、
世界で多くの人から親しまれるのには、きっとわけがあるとも思います。
高いセンスと向上心のある人が西洋クラシックの楽器を手にしたら、
きっとすごいことが起きて、新しい音楽が生まれるはず…。

インドの西洋クラシック音楽事情を聴けば聴くほど、
妄想と野望がどんどん広がってゆくのでした。