海外取材に行くか迷うたび必ず思い出す、木之下晃先生のこと

写真家の故・木之下晃先生
コンクールの海外取材、行こうか行くまいか、採算はとれるのかということを迷った時、必ず思い出す木之下先生の言葉があります。木之下先生といえば、クラシックファンの方はご存知でしょう、“音楽が聴こえる”といわれる演奏家のモノクロ写真で有名なあの方です。

ちょうどこの夏、2007年にNHKで放送された、写真家の故・木之下晃さんのドキュメンタリーが再々放送されていました。観ていたら記憶がよみがえってきたので、ちょっと書くことにしました。
私は直接先生のページを担当することはなかったのですが、“行きあう”と、何かと声をかけてくれた、そんな思い出。(木之下先生、遭遇することを“行きあう”っていってたなーって、ドキュメンタリーを見ていたらなつかしく)

私が最初に木之下先生にお会いしたのは、学生でピアノ雑誌の編集部のアルバイトを始めたばかりの頃。先輩から、入稿用の紙焼き写真をラボに取りに行くお使いを頼まれたときのことでした。
当時私はインドの開発援助の研究をしていた大学院生。木之下先生は、そんな私がなぜクラシック音楽雑誌の編集部でバイトをしているのか、それはもう、ずいぶん不思議そうでした。

バイトの頃から海外の取材にも行かせてもらい、仕事が楽しかったので、その後私は編集部に社員として就職。それを知った木之下先生は、なにかがご不満だったのでしょう、「もっと大きなところで挑戦しないの?」「一度大企業に就職する経験もいいよ」と私に言い、以後私の顔を見るたび、「まだ辞めないの?」と声をかけてくるのでした。
それで私が今は楽しいから続けるというと、「まあ、目の前の楽しい仕事っていうのは、麻薬みたいなものだからねぇ」とおっしゃるのです。麻薬!!
そして普通に考えるとだいぶズケズケ言われていた気もするんですけど、でもそこから親切心が伝わってくるのが、木之下先生のすごいところ。

木之下先生ご自身、若き日は大手広告代理店(博報堂)のカメラマンをしていたとおっしゃっていました。
ドキュメンタリーによれば、「クリエイティヴを求められる時代で、誰もやっていない前衛的な画を撮ろうとしていた」といい、ジャズやロックのステージを、わざとカメラをぶれさせて撮る手法に行き着いたそうです。
その作品を集めた写真集で、1971年、日本写真協会新人賞を受賞。これを見た評論家から、「木之下の写真はコマーシャルが強い」と言われたけれど、当時はコマーシャルの方が時代の先端をいっていたから、「自分は褒められていると思っていた…しかしそうではないとやがて気がついた」なんて、ドキュメンタリーでは語っていらっしゃいました。

さらにつくりこむことに飽きがきて、「クラシックの演奏家を撮り、モノクロで、ストレートに相手を見つめることに興味を持つようになった。そのほうが本当に音が聴こえると思った」らしい。

今改めて感じるのは、木之下先生は、「商業主義に揉まれる中で、自分が本当に魅かれる表現、理想の姿を見つける過程には、価値があるよ」、同時に、「商業主義のノウハウを知るからこそ、のちに生み出したその表現を世に送り出す手段が身につくよ」ということを、私に体験させたかったのだろうなということ。

私はその後、編集部で一瞬だけ編集長のポジションについたのですが、やりたいと思うスタイルとの折り合いがつかなくて3ヶ月後にはフリーになりました。木之下先生にその報告をしたときに言われたことは、今も覚えています。
「僕はあなたに辞めないの?って言い続けていたけど、結局、編集長にまでなったから、それはそれでよかったなと思っていたのよ。でも、辞めちゃうんだねぇ」
…なんだろう、私の人生の決断でまたしても不満を感じさせてすみません先生、という気持ちに一瞬なったという 笑。

ちなみにそれは2011年3月、東日本大震災の直後のことで、6月にすぐチャイコフスキーコンクールがありました。フリーで取材に行くか迷っていたところ、「たとえ金銭的にマイナスでも、行く価値があると思うなら絶対行ったほうがいい。その経験は必ず財産になるよ」と木之下先生。
その言葉に背中を押されて出かけました。この回ではピアノ部門でトリフォノフさんが優勝し、実際、あの瞬間を現地で見たことも、このスタイルで取材ができるとわかったことも、人とのつながりも、大きな財産になりました。
あそこで一歩踏み出した経験がつながって、こうして仕事を続けられている感じがすごくある。もちろん、あんまりうまくいかないこともあるけど、何でも楽しい。

今でも、そろそろ次のアクションを起こしたほうがいいかな、今の仕事がおもしろいからって満足していていいのかなとふと思うとき、木之下先生の、「目の前の楽しい仕事は麻薬」「金銭的にマイナスでも価値があるならやれ」という二つの教訓がよみがえります。
心地よい現状に甘んじない、リスクをとって挑戦する。その姿勢によって、木之下先生は唯一無二の写真家として、あれだけの作品を残されたのだなと改めて思うのでした。

…で、なんで今急にこんな話をするかというと、実は前に書いてあって載せられていなかったこの文、今の状況にフィットするので、公開してみようと思った次第です。

というのも、私は日本を発ちまして、ジュネーブコンクール、ロン・ティボーコンクール、パデレフスキコンクールと、この秋続けて開催される3つの国際ピアノコンクールの取材に出かけるところなのであります!

今回もどうしようかなと迷ったのですが、すばらしい若いピアニストたちの取材をする意義はもちろん、自分自身の人生のインプットを増やすためにも絶対行った方がいいと思い、決断した次第です。今回も現地速報レポートを書かせてくれるぶらあぼONLINEさん、ありがとう! そのほかONTOMO Webにも読み物を寄稿予定です。

というわけで、これから順次記事が公開されていきますので、どうぞお楽しみにー!

クライバーンコンクールこぼれ話

クライバーンコンクールについてのちゃんとした記事が出きったところで、最後に余談をつらつらと書きたいと思います。時間を持て余している方は、どうぞお付き合いください!

ピアノの話

今回、目に見えてわかりにくいのであまり話題にならないと知りつつ私が関心を寄せていたのが、ピアノのお話でした。
このコンクールではスタインウェイのみが使用されるということ、またバス・パフォーマンスホールに移ってからの調律師さんのインタビューはすでにご紹介しました。
けっこう個性の違う2台のピアノ、しかしロゴを見ただけでは違いは基本わからない…そんななかで、一部のコンテスタントがプログラムによってヒッソリとピアノをチェンジしていたのが、とってもおもしろいなと思った次第です。
違うメーカーに変えれば、音はもちろんメカニックの面で感触が大きく違うことも多いと思いますから、リハーサル時間の取れないコンクールでピアノをチェンジするのはそれなりに勇気のいることです。
しかし今回は、ニューヨークとハンブルクでタイプが違うと言えども、いずれもスタインウェイだったので、多くのピアニストが安心してピアノをスイッチしていたように思います。

おもしろいチョイスをしていたのが、まずはクレイトン・スティーブンソンさん。
彼はTCUでの予選&クオーターファイナルでNYスタインウェイを選び、特徴的な音を鳴らしていましたが(弾きやすさより音質を選んだ、というコメントはこちら)、バス・パフォーマンスホールに移ってからは、ステージによってハンブルクとNYを弾きわけていました。プログラムに合う音質をセレクトしたのでしょう。

アンナ・ゲニューシェネさんもまた、TCUではずっとハンブルクを使っていたのに対し、バス・パフォーマンスホールに移ってからはNYとハンブルクを使い分けていました。例えばモーツァルトのピアノ協奏曲はハンブルク。
調律師のベルナーシュさんが、今回のNYはしっかり鍵盤を押し込めばより大きな音が出ると話していたことと、アンナさんがモーツァルトのあとに「ブライトすぎる音でオーケストラを圧倒しすぎないようにすることは、ある意味チャレンジング」と話していたことが、つながりますね。ピアニストは本当にいろいろなバランスに気を配って音楽を作っています。

ちなみに優勝したユンチャンさんは、最初から最後まで一貫してハンブルク…かと思っていたら、ファイナルのラフマニノフ3番のとき、直前でピアノをNYに変えていたそうです。

(※ピアノの選択についての記述、一部誤りがあり、修正いたしました。元の記事は、スタインウェイの調律師さんからいただいたピアノセレクトの一覧に基づいて書いたものだったのですが、その後、直前でのチェンジなどがあったようです。教えてくださったUさん本当にありがとうございます。以後、情報に間違いがないよう気をつけます。申し訳ありませんでした!)

パーティーの話

クライバーンコンクールは、地元のお金持ちたちのサポートで支えられているコンクールだということが知られています。授賞式の賞の正式名称がやたら長い(しかも企業とかでなく個人名がついている)のはそういうことも関係していると思われます。そして、賞金の額がすごいということもお気づきになったはず。
コンテスタントたちのホームステイ先の立派さからもそのことは窺い知ることができたでしょう。
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(前の記事でも話題に出ました、マルセルさんステイ先のプールは飛び込み台つき!)

(亀井さんのステイ先には、見たこともない機能のついたソファがありました。ステイ先の紹介記事はこちら

もうひとつ特徴的なのが、コロナもなんのその、期間中のパーティーの多さ!

結果が出た後のさよならパーティーくらいならどこのコンクールでもありますが、途中でもバンバンやりますし、ロケーションにもいちいち凝っています。

まずは演奏順の抽選会から、超ロングなディナーパーティーの中で行われます。しかも演奏順の決定は、抽選で名前を引かれた人から自分で演奏順を決めていくという、なかなかの緊張を伴うスタイル……コンテスタントはフルコース出されたところで気が気じゃないですよね。
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(C)The Cliburn

以前このパーティーに出席したことがありますが、メインのフィレステーキを出されるころには、ピアニストみんな疲れてるだろうし早く帰って寝させてあげたい、という気持ちになりました。私自身が肉を切りながらモーレツに眠かったので…。

その他にもいろいろあります。
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こちらは、セミファイナルの後に行われる、毎回恒例のzoo party。場所はフォートワース動物園。とにかく暑いので、フローズン・マルガリータがおいしい。飲み過ぎ注意な感じです。

そして、コンクール開幕のときに採寸したウエスタンブーツがコンテスタントにプレゼントされます。
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(C)The Cliburn
(オフィシャル写真にあったけど、この採寸中の足は誰でしょうね。マーベルの靴下)

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(いつも写真のポーズがイケメンだと評判の吉見さん。後ろは出来上がりを試着するコンテスタントのみなさん)

さらにこんなパーティーもありました。
フォートワースの有名なファイアーストーン&ロバートソン蒸留所でのウイスキーパーティー。地元出身の二人の男性がかつてゴルフコースだった場所を買い取ってオープンさせた、ウイスキーの蒸留所らしいです。

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(ウイスキー樽をバックに佇む亀井さんとマルセルさん。それにしてもこの二人、どちらも背が高いのに、マルセルさん写真だとものすごく背が高く写りますよね。トリックアート的な要素がどこかに隠されているのだろうか…)

ウイスキーカクテルやお肉料理が振る舞われ、ただただおいしいものを楽しんで帰ってくる感じ。ちなみに、お土産に買ってかえってきたほど、こちらのブレンドウイスキーがおいしかった! 今調べたら日本でも買えないことはないようだけど、やっぱり高い。もっと買ってくればよかった。

泊まっていた家の話

最後は私がお世話になっていたお家の話です。
家主のバリーさんはベテランのジャーナリストで、私が辻井くんが優勝した回のクライバーンコンクールを取材したときに知り合いました。

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(庭でサーモンをスモークしている)

バリーさんは若き日に日本の新聞社で働いていたこと、さらに奥様がインド人だったということで仲良くなり、フリーランスになってコンクールを全期間取材するようになってからは、お家にお世話になっています。
実は奥様は少し前にご病気で亡くなってしまったのですが、家には今もいたるところにインド感が漂っています。

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(ソファの生地がインドの布だったり、バスルームにガンジーのでかいオブジェが飾られていたり、いろいろびっくりします)

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(テーブルクロスもインドのプリント)

で、私がこちらのお宅にお邪魔するうえで最も楽しみにしていることが、このテーブルの上に転がっている、ねこのウキーちゃんとの再会であります。
もともとねこをかったこともなく、さらには他人様の家のねこと遊ぼうとしたところでなつかれたこともなかったのですが、5年前のウキーちゃんとの出会いは衝撃的でした。
よくわからないけどニャーニャー言いながらすごい寄ってくる。とにかくかわいい。そしてんだろう、なんか気が合っている気がする。
…おそらく単に、家主のおじいさんがねこと遊ぶみたいなタイプではないから、いいカモが来たぞという感じでかわいさアピールしてきているだけなのでしょうけれど。とにかくなでろと言ってくる。

ちなみに一度、よく見る棒の先のおもちゃを動かして追いかけさせるみたいな遊びは好きなのかなと思ってやってみたら、最初はどうにも抑えきれない衝動的な感じで追いかけていたけど、1分もたたないうちに「ハッ」と我に返ったような表情を見せ、「そういうのに反応しちゃう自分がイヤなの、やめてくれる?」みたいな感じで、そっぽを向いて部屋から出て行きました。そんなねこいるの。
でもでも、そんなところにも共感するよ、ウキーちゃん!!

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この媚を売らない感じの目つきがいい。そのわりに膝の上にのって、パソコンの前に割って入ってくる。帰国して2週間経ちますが、2日に一回は動画と写真見てます。さみしくて。

ところで我が家主、ジャーナリストとして結構長く日本にいて、その後インドやアフリカにいったり、中東で牢屋に入れられたりしていたやばい人だという話は聞いたことがあったのですが、今回はじめて、「もともと早稲田大学に留学したんだけど、学生運動が始まって、その写真を撮る中で新聞社の手伝いをするうちにジャーナリストの道に進んだ」という事実を聞きました。
そしてなんと、三島由紀夫のあの切腹があったあのとき、市ヶ谷駐屯地にいたらしい(ジャンプしたけど直接は見えなかった、といっていた…)。
生前の三島由紀夫を熱海に訪ねて家族と1日過ごしたとも言っていました。
「彼は若い白人の青年を前に、知的でエレガントな優しい男を演じていると感じた」だって。すごい証言。

と、そのようなわけで最後は完全にクライバーンコンクールと関係のない話になりましたが、お付き合いどうもありがとうございました。
そして実は今月、記事では書ききれない、さらには書いて残すのはちょっと気が引けるなというクライバーンの裏話を、一気にお話しする機会がございます!!

朝日カルチャーセンター立川教室
ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール2022現地レポート
7月30日(土)15:30〜17:00

コンテスタントたちの魅力、コンクールの裏話やいろいろな出来事、審査にまつわるお話などを、現地で撮ってきた写真や動画とあわせて、たっぷりご紹介したいと思います。
教室・オンライン、どちらでも受講可。当日の予定があわなくても、後日1週間アーカイヴで動画が見られます。みなさんご参加のうえ、ぜひ教室やコメントで、コンクールのご感想や質問などお聞かせくださいね。

クライバーンコンクールの現地レポート、あちこちに記事を書きましたが、とりあえずはこのあたりで一度完結です。また何か思い出したら書くかもしれませんけれど。
どうもありがとうございました。

クライバーンコンクール、印象的なコンテスタント達のお話

ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール史上、最年少の金メダリストとなった、イム・ユンチャンさん。

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登場したときの、これは何か持ってるな、という感じは特別でした。めちゃくちゃ良く弾ける、でもその先に何かがある感じ。年齢は関係ない、でもやっぱり18歳ですでにここまできているのはすごい。
終演後に話しかけたとき、英語はできないからといいながらポツポツと静かな口調で応えてくれる様子に、浜松コンクールに出場していた15歳のチョ・ソンジンさんのイメージが重なりました(言葉が通じないものだから、演奏の前に何食べたかとか、映画何が好きかとか、苦し紛れにそんなことばかりきいた記憶)。

とはいえ、すぐにコンサートツアーを回ることができるピアニストが求められるこのコンクールで、18歳のユンチャンさんが優勝させてもらえるのかなとは思っていました。しかしファイナルであれだけの演奏をすれば、やっぱりこういう結果になりました。
優勝後のコメントなどを聞いてもご本人もとても真面目そうだし、先生もしっかりした方のようだし、きっとこれからもうまく勉強とコンサート活動のバランスをとって進んでいってくれるのではないかと思います。というか、そう願いたい。
ニコリともせずステージに出てきて、弾き始めると豹変する様子はなかなかのインパクトでしたが、ステージ外で、おめでとう!と声をかけたときにふっとみせる笑顔は、しっかり18歳でした。

ちなみにこれは取材する側の本当に勝手な事情なんですけれど、コンクールの取材でいちばん「やっちまったー」となるのは、ファイナルまで一度も話しかけていなかったピアニストが優勝することなんですよね。
その理由は、チャンスがなかったとか、シンプルにノーマークだったとか、いろいろですが。優勝してからそそくさと寄っていくと、やっぱり、優勝したからきたよねっていう感じになっちゃうよなぁと気が引けるのです。別に気にする必要ないんでしょうけど。
そしてなぜか運良く、これまでのコンクールでそういうことはあまりない…特にフリーになってから取材したコンクールでいうと、一度だけかな。いつとは言いませんが。
で、その意味で今回も、予選の演奏のあとにしっかりイム・ユンチャンさんに話しかけていた私、よくやったと言いたい。演奏順の都合でどんなに関心をもっても声をかけられないときもあるのですが、最終奏者だったこともラッキーでした。

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ロシアのアンナ・ゲニューシェネさんは、最初から最後まで安定感のある演奏、内側から湧き出してくるような音楽表現、経験豊富なピアニストならではの貫禄で、入賞に相応しい存在だったと思います。
出産を控えた体でこのハードなスケジュールをこなすだけでもすごい。ファイナルからは、夫のルーカス・ゲニューシャスさんも現地にかけつけて側で支えていたそうです(お子さんはおじいちゃんおばあちゃんのところに預けてきた、とルーカス談)。
結果発表後はアンナさんももちろん嬉しそうでしたが、ルーカスが本当にめちゃくちゃ嬉しそうだった。よかったね!
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(授賞式のオープニングでウクライナ国歌を演奏したホロデンコさん(右)と。二人ともうすっかりベテラン感漂います。ショパコンに入賞した20歳の頃が懐かしいよルーカス)

ウクライナのドミトロ・チョニさんについては、私はその音にとても魅力を感じました。可憐なのよ。音量で勝負するわけではないんだけど、ぴちぴちした音がよく通ってくる。

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祖国で起きていることを思えば、コンクールに集中することが難しい瞬間もあったかもしれませんが、しっかりとご自分の音楽を届けてくれました。

それにしても、このコンクールでは、関係者はもちろん聴衆もどんな国のコンテスタントに対しても受け入れる態度を保っていたのが印象的でした。少なくとも私は、ロシアやベラルーシのコンテスタントにきつく当たる人は見なかった…もちろんご本人たちに聞いたら何かあったかもしれないけど。
少し前に、アメリカでUFC(総合格闘技ですね)の試合を見たというジムの先生が、ウクライナの選手には声援が出て、ロシアの選手にはブーイングが飛んでいた、という話をしていたのが印象的でした(オリンピックならまだわかりますけど、そういう大会じゃないですからね。逆に先生は、アメリカ人にとってはUFCがそれだけ自分の感情と重ねてみる身近なイベントなんだと思った、と話していましたが、それはまた別の話)。
クライバーンコンクールの場合は、クライバーンさんが冷戦下のソ連でアメリカ人なのに優勝させてもらえたという成り立ちの背景もあるし、そもそもクラシックの聴衆は、ソ連時代の作曲家…当局の圧力に苦しめられて作品を生み出した人たちのことをよく知っているから、ロシア人アーティスト個人とロシア政府のやっていることは切り離して考えようと思う人ばかりなのかもしれません。わからないけど。

まあいずれにしても、自国のアーティストが国外で冷遇され、才能がつぶされようとも、政府のトップ権力者にとっては痛くも痒くもない。そもそも、自分達の方針に迎合しないアーティストは自分達でその才能を潰す、もっといえば、迎合させることで才能を潰すこともあるのだから。一度戦争状態になれば、ロシアに限らずどの国でもやることでしょうけど。

話を戻して、そのほか入賞を果たせずとも印象に残った面々。

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まずやはっぱり、ケイト・リウさんです。予選もクオーターファイナルの演奏も、私は本当に好きだったし、彼女のプロコフィエフを聴くことができてとてもよかった。ベートーヴェンのOp.110も心に沁みた。ファイナルのコンチェルトも聴きたかった。
ショパンコンクール以後、しばらく演奏活動をお休みする時期もあり、奏法を大きく変える必要があったと話していましたが、その経験を経て音楽もまた深まったのではないかと思います。またすぐに来日してくれるといいです。

ゲオルギス・オソキンスさんも、また日本に演奏しに来てほしい。こういう、自分の音楽とやっていることに確信を持っているピアニストというのは、今日は何を見せてくれるのだろうという期待があって、毎回のステージが純粋に楽しみです。で、聴いてみてどう思うかはその時次第!
それにしても、彼の演奏を最初に聴いたのは、2015年のショパンコンクールだから、20歳の頃? 1次予選終盤の疲れた頃に登場して、うわ、すごいの出てきた!と思って、疲れがばっと吹っ飛んだことを覚えています。

話しかけるにも気を使ったあの時に比べたら、ほんとうに丸くなりましたよね。音楽は相変わらず尖ってるけど。

こちらは動物園パーティで、プレゼントのウエスタンブーツを試着した時の一コマ。
こう見えてすごい好青年なのです。この写真添えたら説得力ないか。

ソン・ユトンさんは、5年前のクライバーンコンクール、昨年のショパンコンクールはじめ、あちこちのコンクールで聴いてきたピアニストです。美しく、どこか闇も感じさせる音楽に対して、直接話しかけるとやわらか~い雰囲気のギャップがなかなかすごい。 5年たってまたこのステージに戻ってきた感想は?と聴いたとき、「少なくとも、5年前よりは悪くはないんじゃないかなと思います、今回はセミファイナルまでこられたからー(笑)!!」といって、自分でめちゃくちゃに笑っていたことがすごく印象に残っている。謎のユトンジョークと、置いていかれる私。

ユトンさんはもうすぐ初来日!
2022年7月16日(土)14:00  東京 トッパンホール
2022年7月19日(火)18:30  ミューザ川崎シンフォニーホール
ときめく夏~東京交響楽団 WITH 中国のライジングスターズ~

ものごしやわらかといえば、ホンギ・キムさんも。
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ブリリアントな音、ピアノを弾いている時の独特のタッチが印象的で、あれはどうやって編み出したの?と聞いたら、「実は8年前に右手を怪我してピアノを弾けなくなった時期があった。その時、腕に負担をかけないようにするなかで今の奏法を編み出した」という話をしてくれました。
弾けなかった時は本当に悲しくて、でもおかげでピアノへの感情が全く変わった、と、穏やかな口調で話してくれました。みんないろいろな経験をしてピアノへの愛を深めているのですね。
で、ホンギさんの声色どこかで聞いたことあるなと思ってしばらく考えこんで、あ、ちびまる子ちゃんの永沢くんだ、と。
…どうでもいいですね。

そしてこちらは今回参加していたコンテスタントではありませんが、前回の銅メダリストであり、浜コン第3位のダニエル・シュー!!
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今回、コンクールファイナルの中継で、コメンテーターとして活躍していました。すっかり貫禄がつき(といったら、すかさず、「太ったってこと??」とツッコんでくる自虐反射神経のよさも相変わらず)、落ち着いた雰囲気になっていたので、また演奏も深まっているんだろうな、聴きたいなぁと思いました。
それこそ彼も浜コンで入賞したときは18歳で、若いのに成熟していると言われ、でも本人は、年齢って関係あるのかな?と疑問を投げかけていた人。自分でiPhoneのアプリを開発して何かの賞を受けるなど、音楽以外の才能も持っていましたが、今はピアノに集中していきたいと話していました。

 

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(C)The Cliburn

クライバーンコンクールって、アメリカの富豪に支えられているコンクールらしく、合間にパーティーがたくさんあって、その中でコンテスタント同士が交流する機会もけっこうあります。ホームステイなので、最後までそのまま滞在するコンテスタントも多い。
また次にどこかのコンクールや留学先、演奏旅行先での再会を約束している場面もたくさんあって、いいものでした。

気になった人を全員紹介しきることはできませんでしたが、今日はこのあたりで。

クライバーンコンクールが終わって…まずは日本のお三方のお話

ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールは、韓国の18歳、イム・ユンチャンさんの優勝、そしてロシアのゲニューシェネさんが銀メダル、ウクライナのチョニさんが銅メダルという結果となりました。

今回もすばらしいピアニストたち、記憶に残る演奏にたくさん出会うことができました。閉幕からもう1週間、少し落ち着いたところで、ゆるめに今回のコンクールを振り返って見たいと思います。アーカイヴで演奏はこれからも聴けますので、ご興味を持った演奏はぜひ聴いてみてください!

まず今回のコンクールで印象を残してくれた人たちといえば、このお三方でしょう。
日本/フランスのマルセル田所さん、日本の亀井聖矢さん、吉見友貴さん。

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(そろって次のステージに進出した予選結果発表後の写真) IMG_2937
(この写真吉見くんだけすごい躍動感でじわじわくる。一人だけ今から時空越えそう)

普段コンクールの取材をするときは、日本人という理由でクローズアップするというスタンスから少し距離を置きがちな、みなさまの需要に応えないダメライターのわたくしですが(なに人だっておもしろいピアニストを紹介したいのよと思ってしまう)、今回このお三方は非常にキャラが濃く、音楽性も濃く、自然と注目するに至りました。予選演奏後のコメントなどもこちらで紹介しています。

印象に残ったのは、亀井さんならセミファイナルのリサイタル。
余裕すぎる「イスラメイ」の仕上がりは、過去のコンクールで植え付けられた「コンクールで聴くイスラメイは弾けることを見せるために選曲されたもので、いつも一生懸命弾かれている」的なイメージを払拭するものでありました。すごい素敵な曲じゃないのと。みずみずしく伸びる音の持ち主です。
亀井さん、ファイナルは会場に聴きにいらしていましたが、フォートワースの皆さんから本当に人気で、なんだかホールの中で女子の人だかりができてるな?と思ったら、亀井くんの撮影会が行われていた、なんていうこともありました。すごい。
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(フォルムが似ているという理由でよくユンチャンと間違えられたようですが、この時は決して間違われていたわけではありません)

吉見さんは、予選のリストのロ短調ソナタもよかったんですが、とても印象に残っているのは、クオーターファイナルのブラームスの「パガニーニの主題による変奏曲」ですかね。運動神経の良さが発揮されているというか、生命力にあふれているというか。さすが四重跳びできるだけある(縄跳びがめちゃくちゃ得意なんだそうです)。思い切りの良い、迷いのない音楽は、聴いているとわくわくしてくる。
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(縄跳びのせいかピアノのせいか、さすがのしっかりした前腕)

マルセル田所さんは、セミファイナルのモーツァルトのピアノ協奏曲の演奏がとても楽しくてすばらしかったのですが、ソロのステージでも、自分だけのプログラム、自分だけの音楽を聴かせてくれて、始まるまで何が出てくるかわからない感じが良い。これからも聴き続けたいピアニストです。
何を弾いていても基本的には音が優しく品があって、だからこそ、ストラヴィンスキーのペトリューシュカとか、スクリャービンやラフマニノフで狂気チラ見せしてきた時のインパクトがすごいのです。やっぱり隠し持ってたか、という感じが。結果的に、表現の印象は人間的で熱いという不思議。

 

ところでこれはコンクール取材あるあるなんですけど。帰ってきてから改めて配信の映像みて、この方、こんな表情で弾いてたのね!とびっくりするということがわりとあるんですね。

日本からのお三方に関していえば、吉見さんは、客席から遠目で見ていた印象とそう離れていない感じ。
亀井さんは、普段と弾いてるときの顔違うよね?というのに加えて、体の使い方が興味深い。肩甲骨周りやわらかそうで、泳げないとは思えない感じ(マルセル家のプールで溺れかけたらしいというエピソード、ご存知の方も多いかと思います)。
ギャップがあったのはマルセルさんで、こんな深刻な顔で弾いてたんだ!と思いました。いやなんか普段のゆるんとした表情のイメージがやっぱり強いから。

でもまあ、何より一番ギャップがあったのは、審査委員長でファイナルの指揮をつとめたオルソップさんかもしれない。会場で見ていたピアノ蓋で半分隠れた後ろ姿(正面が見えるのはピアニストの方をしっかり向いているときだけ)と、映像で四方から映された姿だとだいぶ印象違う…そもそも会場でも、ファイナルの終盤で左の席にずれて棒の先がよく見えるようになった時点で、少し印象変わってたけど。
ものごとは、見る角度によって違って見える。

と、それはさておき、日本勢の国内における今後のコンサート情報です。

吉見友貴さん
2022年9月9日(金)19:00 東京 紀尾井ホール

亀井聖矢さん
2022年8月7日(日)17:00 岐阜 サマランカホール
2022年8月11日(木・祝)15:00 八ヶ岳高原音楽堂
2022年10月27日(木)18:45 愛知 三井住友海上しらかわホール
2022年12月11日(日) 17:00 東京 サントリーホール
*7月中にはかてぃんさんこと角野隼斗さんとの2台ピアノの全国ツアーがあるようですが、こちらはさすが完売。他にもオーケストラとの共演があるようですのでHPをチェックしてください。

マルセル田所さんはフランスにお住まいで、直近ではサンタンデールなどコンクールへの挑戦も控えていることから、日本でのコンサート情報はまだありません。
でもインタビューで、やっぱり日本大好き、日本で弾きたい!とすごくおっしゃっていたので、近いうちに開催されることを楽しみにしましょう。

全体を振り返ろうと思っていたのですが、日本のみんなのことを書いているだけで長くなってしまったので、とりあえず今日はこのあたりで。

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(パーティーでプレゼントされたというハット、似合ってました!)

スタインウェイの担当調律師、ベルナーシュさん

ここまでの記事でも触れた通り、ヴァン・クライバーンコンクールでは、スタインウェイのピアノのみが使われています。そして同じスタインウェイでも、タイプの違うニューヨークスタインウェイとハンブルクスタインウェイが用意され、各コンテスタントが自分のレパートリーなどを考慮しつつ、選択するスタイル。ラウンドはもちろんコンチェルトによってピアノを変えるコンテスタントもいますが、そこは、多くのピアニストがホールで弾き慣れ、信頼を寄せるスタインウェイのみの状態だからこそ気軽にできること、なのかもしれません。

今回は、ソロのみの予選とクウォーターファイナルまでがテキサス・クリスチャン大学(TCU)、コンチェルトも入ってくるセミファイナルからがバス・パフォーマンスホールと、途中で会場が移る形です。
そしてセミファイナルの会場ではまた別のハンブルクスタインウェイとニューヨークスタインウェイが用意され、事前に15分間のピアノ選定が行われました。

セミファイナル以降のピアノの準備と調律を担当しているのは、5年前同様、ニューヨーク・スタイウェイに在籍する、ベルナーシュさん。お話を聞こうと声をかけると、「去年の秋日本に行ったよ、内田光子の日本ツアーの調律を担当したんだ。隔離期間があったから大変だったけど」とのこと!
ここぞとばかりにその辺りのお話も伺いつつ、今回のピアノの特徴や調律において心掛けていることをお聞きしました。(ちなみにベルナーシュさんの予定が合わなかったこともあり、TCUではTCUの技術者さんが調律を担当していたそうです)

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Joel Bernacheさん

***

–今回の2台のスタインウェイのそれぞれの特徴はどのようなものですか?

どちらも私が事前の準備をしたピアノですが、特にハンブルクのほうは新品だったので、調整にかなり手をかける必要がありました。
一般にも言われることですが、ハンブルクのほうは音がより早く出てくるというか、音がすぐによく鳴ります。
ただニューヨークのほうは、強くフォルテシモを弾いたとき、ハンブルクよりも大きな音…ブライトというわけではないんだけど、豊かなボリュームの音を鳴らすことができます。ただ、そのためには鍵盤をしっかり押し込まないといけません。
オーケストラとの共演もあるセミファイナルから、より多くのピアニストたちがNYのほうを選んだのは、そのためだと思います。

—特にモーツァルトの20番を弾いたピアニストが、もともとハンブルクを弾いていても、セミファイナルからNYを選んでいたのが興味深かったです。作品の性格を考えてのことでしょうか。

そうだと思います。おもしろいですね。
ちゃんと準備されたピアノならばどんなレパートリーにも合うように弾けるとは思いますけれど、でも、どちらもいいピアノだったら、より合う方を選ぶというのは当然だと思います。
今回はその多くがハンブルクスタインウェイが主流のヨーロッパや東アジアからのコンテスタントでしたから、音に慣れているということで、そちらを選ぶ人が多かったのは当然だと思います。セレクションの時間はたった15分ですし。それにハンブルクのほうが、クリアで透明感のある音がします。
NYスタインウェイは、たくさんの色彩を持っていますけれど、それがちょっと変わっている…直接的でない感じというか、フォーカスした音でないというか…でも、それをおもしろいと思う人は選ぶのでしょう。複雑な音を求めている人がNYを選びがちかもしれません。

—コンクールでピアノを調律するときに一番気をつけることは?

まずはパワーのあるピアノにすること。特にファイナルでは大編成のオーケストラとの共演になりますから。たとえどんなに美しい音がしても、どんなに上手に演奏していても、聞こえなければ何にも意味がありません。最大限に力の出せる楽器である必要があります。もちろん音が汚くならないギリギリのところで。それから予測を立てること心掛けています。

—ここは大きな会場なので大変では?

いえ、ステージ上ではけっこうよく反響してくるので、悪くないですよ。

—良い調律師に求められる資質はなんでしょうか?

オープンマインドであることですね。常に音楽家から学ぶ気持ちでいなくてはなりません。ピアニストが音楽的に気にかかっていると話すことは、技術的な視点から読み替えることがとても難しいこともあります。それでも、辛抱強くいられるようでないといけません。
私たち技術者は、それぞれに自分が普段やる手続やプロセスを持っていますけれど、ときには音楽的な問題をクリエイティヴなアイデアで解決するため、従来のパラメーターを外して考える必要があります。

—ピアニストからのリクエストは抽象的なこともあるでしょうね。

そうですね。一部の調律師は、そういう言葉をうけても、ピアニストは自分でも何を話しているのかわかっていないのだろうとまともに聞き入れずに済ましてしまう人もいます。でも私は、それは間違っていると思います。そういうピアニストは、単にその希望をどう伝えたらいいかわかっていないだけなのです。むしろ、そういう言葉を技術的な感覚に置き換えることも私の仕事の一部だと思っています。
そこには、かなりのクリエイティヴィティが求められますけれどね。

—昨年秋の内田光子さんの日本ツアーで調律をされたということですが、彼女のピアノを調律するのは大変ですか?

そうでもありませんよ、彼女は自分が欲しいものをはっきりわかっています。何をしたいかが決まっていて、音楽的なアイデアがとてもはっきりいているから、コミュニケーションもとても明快です。
私が特に気を遣っていることを一言でいうなら、ヴォイシングです。調律においてはもちろん全ての要素が重要ですが、一つの音から次につながるときも含め、クリアな音が持続するようなヴォイシングは、特に大切にしています。

—ところで、調律師になろうと思ったのはいつごろですか?

21歳のときでした。よくこういうことを言う人っていると思うけど、あとるき突然、これが私の仕事だ、って感じたんですよね。そしてそれは間違っていなかったということです。

—コンディションが難しいピアノを調律しなくてはならないときに一番大切なことは?

まずはとにかく落ち着くことです(笑)。

—パニックになってはいけない。

そう、それが第一。私がパニックになれば、私の周りの人がみんなパニックになっていきます、もちろんピアニストも含めて。
次に必要なのは、数分間とってプランをつくることです。作業を始める前に、自分がやろうとしていることは本当に意味があるかを考え、プランを立てます。その意味でも、とにかく落ち着くということが一番大事なんですね。

クライバーンコンクール、セミファイナル3日目に思う

セミファイナルが始まって3日目。折り返しです。

今日はあまり演奏と関係ない現地の様子を少しご紹介しようかなと思います。

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セミファイナルからは会場がバス・パフォーマンスホールに移り、コンクールが行われています。

こちらのセキュリティチェックが結構厳しい。大きくてかわいい警察犬も常駐しています。

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ノートパソコンの入ったバックパックを持って入ろうとしたら、入口のセキュリティの人に、大きいバックパックは持ち込めない、どこかに置いてこいと言われてしまいます。鞄のサイズに制限があるのかなと思って、どの大きさまでなら持ち込めるの?と聴くと、大きさはなんでもいい、バックパックがだめなんだ、と。
え、形の問題?と聞くと、わかりませーん、のポーズで、そこにいたセキュリティの人たち全員黙るという…。
そんなわけで、翌日からは普通のショルダーバッグに荷物を入れて無事に入っていますが、これって、どういうルールなんでしょうね?爆弾はだいたいリュックで背負ってくるものっていうセキュリティ界の常識でもあるんでしょうか。

以前インドのタージマハルで、ワイヤーっぽいものは持ち込みNGといわれ、イヤホンとか充電器とか全部預けさせられたことを思い出します。ワイヤーの先に爆弾ついてなきゃ大丈夫だろと思うんだけど、そういう問題でもないんでしょうか。

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そのわりに、街中にもホールの入口付近にも、至るところに大きなゴミ箱があります。テロ対策の名目で、駅にすら一つもゴミ箱がない日本とは大違い。日本人は黙って持って帰るけど、アメリカの場合、そんなふうにゴミ箱を撤去したらそこらじゅうにみんなが捨ててしまうからなのかもね。

そしてこちらがロビー。
バルコニーには歴代の優勝者の懸垂幕が。格闘技の会場みたい。
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コンテスタントの各ラウンドの演奏が、デジタルアルバムとして$5で販売されています(この写真はTCUの会場のロビーです)。
どういうシステムで販売されているのかわかりませんが、休憩中、買っていく人を割と見かけますよ。

***

ところで、やっぱり少しはコンクールの話を。
セミファイナルでは、モーツァルトのピアノ協奏曲が演奏されています。

モーツァルトは、シンプルだからこそめちゃくちゃむずかしいし、こわい、とはよく言われること。奏者の技術も音楽性も丸裸になる。それはピアニストだけでなくどの楽器奏者にとってもおなじことです。

その意味で、例えばコンチェルトで管楽器のメロディとピアノが掛け合いをするなんていう場面は、普通のコンチェルト以上に、うまくいったりいかなかったり、それがはっきり聴き手の耳に届いてしまいます。

今回は、全体的にみて、このモーツァルトでオーケストラとの合わせに苦戦している人が多い印象…。全体にどの曲でも、オーケストラがゆったり動きがちだからかもしれません。オーケストラとうまくアンサンブルをしていたマルセル田所さんは、自分のペースよりだいぶテンポを落としたといっていました。逆に、オーケストラを置いて先に走ってしまったかも…と思い返している方もいました。

今セミファイナル3日目まで終わったところでは、なんとなくマルセルさんやアナ・ゲニューシェネさんなど、アラサー組がうまくオーケストラとの掛け合いをこなしている印象です。きっといろいろな成功と失敗を繰り返して、アンサンブルの能力というのは磨かれていくのでしょう。モーツァルトには遊び心や無邪気さが求められ、一方でそういう経験値も求められるのですから、やっぱり難しい課題なのですね。
その意味では、これから演奏する18歳のユンチャンさんあたりがどんなふうにモーツァルトを弾くのか、結構楽しみです。

指揮者、オーケストラの皆さんもハードなスケジュールのなかで大変ですが、ここはひとつ、若いピアニストたちをうまくサポートする方向でがんばってほしいところであります。

クライバーンコンクールのスタインウェイ…ハンブルク?NY?

6月6日現在、クライバーンコンクールはクオーターファイナル進行中。

コンクールが始まって数日はわりと過ごしやすかったのですが、クオーターファイナルが始まったあたりから、またものすごく暑くなってきました。本日は最高気温36度。今週末には38度までいくようです。焦げますね。

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(予選、クオーターファイナルの会場、テキサス・クリスチャン大学のヴァン・クライバーンホールとその周辺。午後5時過ぎでも太陽ギラギラ、36度!)

基本的にはカラッとしているのでまだ過ごしやすいですが、突然大雨が降ったりするので、そのあとは湿度が爆上がりです。ピアノの状態が心配になりますが、先日話を聞いたコンテスタントのゲオルギス・オソキンスさんは(ハンブルクスタインウェイを選択)、「自分の演奏の前にも雨が降ったから心配していたんだけど、このピアノはいろいろな場所を移動しているから、環境の変化に強くて安定していたよ」とのこと。

さて、そんなスタインウェイのピアノ。先日の記事で書いた通り、このコンクールではスタインウェイのみが使用され、今回はニューヨークとハンブルクの2台のピアノから、それぞれが使用するピアノを選んでいます。

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(このコンクールではレアな、ピアノチェンジの場面)

これがまた、かなりキャラクターの違うピアノです。配信でどのくらいそれが伝わっているかわかりませんが、特に強めに鍵盤を叩いたときに、はっきり違いがあらわれる印象です。
今回予選に参加した30人のコンテスタントのうち、9割がハンブルクの方を選んでいます。こちらを選んだピアニストは、ほとんど迷わなかったという人ばかり。
「ハンブルクの方が深い音色をもっていると思った」「あたたかい音がする」「絶対こっちだと思った」などと、みんな“推し”の誰かをすすめてくるかのようなノリで語っていました。
ちなみに前述のオソキンスさんは、15分のセレクションの際、ニューヨークのほうには10秒しか触らずあとはハンブルクを弾いていたといい、「こっちのほうがリッチで熟した音がすると思った。より想像力をかきたてるの」と話していました。
…想像力をかきてるピアノ、いいですね。

一方で、ニューヨークの方を選んだのはわずか3人だったわけですが、こちらを選ぶ人は、自分のプログラムと照らしてこちらが求める音だということで決断を下していた模様。そして気づけば、3人ともアメリカ人またはアメリカで勉強しているピアニストだという。偶然か必然か。そういえば逆にハンブルクを選んでいる人の一部は、ドイツで勉強しているからこちらのほうに慣れている、と言っていましたね。

例えばティアンス・アンさん(彼は中国人ですが、カーティス音楽院で勉強中です)は、メフィストワルツや「ソ連の鉄のイメージで弾いた」というグバイドゥリーナを念頭に、ブリリアントな音を持つニューヨークスタインウェイのほうを選んだとのこと。

また興味深かったのは、クレイトン・スティーブンソンさんのコメント。予選のゴドフスキー「喜歌劇〈こうもり〉による交響的変容」のシアターモードな感じのサウンド、プロコフィエフのソナタ7番の轟くような音といい、ただきれいという感じでもない強烈な音がインパクト大でして。
(ニューヨークの方を選んでいるピアニストは、パワフルにピアノを叩く方が多い気がします)

どうしてこのピアノを選んだのか、他にほとんどニューヨークを選んでいる人がいないけどどう思った?と聞いたら、こんな回答が。

「まあ、そうでしょうね。鍵盤がとても重いんですよ(笑)、それが問題なんだと思います。私は、音質と弾き心地のよさでどちらをとるか迷って、結局音質が好みの方を選びました。
私の先生は、心にしっかりと音楽のイメージがあれば、鍵盤の問題は考える必要がなくなるものだといつもいっていました。その考えにそった選択です。
このニューヨークスタインウェイは音質がとてもおもしろい。思っている音を出すためにはとても努力が必要だけれど、でも頑張る価値があったかなと思います」

心に出したい音色のイメージがあれば、少し弾きにくいピアノでも、指が勝手に動いてコントロールしてくれる…いいピアニストがよく言ってるやつ。かっこいい。

結局、クオーターファイナルには、ニューヨークを選んだ3人のうち、前述のスティーブンソンさんと、アンドリュー・リさんのお二人が進みました。
お二人とも初日に登場していますので、あらためて他のピアノと聴き比べてみるとおもしろいかもしれません。
逆に2日目のほうは全員ハンブルクスタインウェイでした。完全に同じピアノを、同じ環境で別のピアニストが弾くところを続けて聴き比べられるのは、コンクールならではです。ぜひご注目を!

第16回ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール

2022年6月2日~18日、アメリカ、テキサス州フォートワースで開催される
第16回ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールについて、
ピアニストたちの様子や舞台裏での出来事、取材中に感じたことから、
ちゃんとした媒体で書ききれなかった情報をご紹介します。
コンクールで使用されているスタインウェイのピアノに注目した情報もご紹介します。

【Web上ではこちらで記事を執筆します】

Web ぶらあぼ ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール

・第16回ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール 6/2開幕!
・コンクールスタート。亀井聖矢、吉見友貴が登場!
・予選の結果発表
・クオーターファイナル振り返り
・亀井聖矢さんのホームステイ先を訪問!
・セミファイナル振り返り
・個性的な6人が2曲の協奏曲で競うファイナルを終えて
・INTERVIEW|第1位 イム・ユンチャン
・緊迫の国際情勢のなか出場したゲニューシェネ(ロシア)&チョニ(ウクライナ)に聞く
・マリン・オルソップ審査委員長が語るコンクールと審査

Web ONTOMO  ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール
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 ・ヴァン・クライバーンとはどんな人物? アメリカの英雄の人生
・注目のコンテスタントに直撃!~ティアンス・アン
・予選を終えた亀井聖矢、吉見友貴、マルセル田所に直撃取材!
・注目のコンテスタントに直撃!~ケイト・リウ、オソキンス
・コンクールはセミファイナルへ!これまでの振り返りと今後の聴きどころ
・マルセル田所の音楽を育んだもの

♣アーカイヴ配信(medici.tv)

◆現地レポートアーカイヴ一覧
ヴァン・クライバーンコンクールが始まりました! 6/2
クライバーンコンクールのスタインウェイ…ハンブルク?NY? 6/7
クライバーンコンクール、セミファイナル3日目に思う 6/11
スタインウェイの担当調律師、ベルナーシュさん 6/16
クライバーンコンクールが終わって…まずは日本のお三方のお話 6/27
クライバーンコンクール、印象的なコンテスタントたちのお話 6/28
クライバーンコンクールこぼれ話 7/4 

♣公式ピアノ スタインウェイ&サンズ
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ヴァン・クライバーンコンクールが始まりました!

ヴァン・クライバーンコンクールの取材のため、テキサス、フォートワースにやってきました。今回も優れたピアニストたちがたくさん。しかも各ステージの課題はほとんど自由なリサイタル、ファイナルまでにコンチェルトも3曲と、聴きごたえたっぷりです。
6/2、初日が始まったところですが、みんな自分の得意技で勝負してくるので、プログラムも多彩だし本当に楽しい!
本日からはじまった予選では、審査員も務めるスティーヴン・ハフの委嘱作品が課題に入っていますが、これがまたそれぞれ印象が違って面白い。

演奏順はこちらから。

もちろん配信がありますが、アメリカのこのコンクールならではの華やかな雰囲気を楽しめるのではないかなと思います。
ライブ配信だと時差的に大変かもしれませんが(テキサスは日本からマイナス14時間)、アーカイブでも聴けますのでぜひ素敵なピアニストとの出会いを楽しみに、演奏を聴いてみてください。

今回も、ぶらあぼONLINEで速報的レポートを、その他、web ONTOMOでは、現地取材にもとづく読み物を執筆する予定です。

さらにそこに書ききれなかったこぼれ話や、ピアノ、調律師さんに関するお話は、こちらの「ピアノの惑星」にアップしていきますので、どうぞお楽しみに。

コンクールの会場、これまでは予選からバス・パフォーマンスホールでしたが、今回から、予選、クウォーターファイナルは、テキサス・クリスチャン大学のホール。そしてコンチェルトが入るセミファイナルとファイナルがバス・パフォーマンスホールです。

こちらは予選が行われているホール。

 

ところで配信をご覧の方はお気づきの通り、このコンクールではスタインウェイのピアノのみが使われます。とはいえ、スタインウェイから2台のピアノ…ニューヨークスタインウェイとハンブルクスタインウェイが用意されていて、そのうちの一台を選んでいるそう。
今日チラッとお話を聞いたコンテスタントは、ニューヨークはブリリアント、ハンブルクの方が落ち着きがあって、自分が弾くドイツものに合うと思ってハンブルクのほうを選んだ、とのこと。もう一人のニューヨークの方を選んだコンテスタントは、メフィスト・ワルツを弾くからそれに合うと思って選んだと言っていました。そうやって、それぞれが個性やプログラムにあったピアノを選んでいるようです。
ピアノ選び、メーカーの種類や台数が増えるほど、選択肢は広がっていいと同時に、短い時間で選択しなくてはならないことがけっこうなストレスになるところもあるようなので、スタインウェイのみ2台からというのも逆に良かったりするようです。いつもお世話になっているあのメーカー選ばないといけないかな、なんていう気遣いも感じずにすみますしね…。

ところでアメリカ、もう誰もマスクしてないよとは聞いていましたが、屋外でマスクをしている人はほぼゼロ。
ホールの中のお客さんも、マスクをしているのは一割くらいでしょうか。もうみんなマスクしてないんだねーと地元の人に言うと、うん、ここはテキサスだからね、という答えが返ってくる。(テキサスだから何なんだ?)

行きのアメリカン航空の機内の中からすでに、CAさんもマスクをしていなかったのにはさすがに驚きました。逆に心配になっちゃう。
マスクをしない人は搭乗拒否、なんていうのはもう過去の話なのでしょうかね。

 

審査員インタビューはみだし編

こちらでは、ぶらあぼONLINEではあまりに長すぎになってしまうため載せきれなかった審査員の先生方のインタビューのはみ出し編を、一挙にご紹介します。
本編あってのはみだし編ですので、あわせてお読みください!

***
海老彰子さん

◎ぶらあぼONLINE海老彰子さんインタビューはこちら

―入賞はできなかったけれど印象に残っているコンテスタントはいますか?

ネーリンクさん、アレクセーヴィチさんは、いいと思いました。あと、ヴィエルチンスキさんも、ショパンのスタイルを持っていらっしゃいました。あとは角野さん。アルゲリッチさんがブラジルで聴いていらしたようで、好きだとおっしゃっていました。才能がすごくあると。

―ところで、事前のインタビューでは審査員の先生方はみなさん、ショパンのスタイルにおいては、大きな音で弾く必要はない、速く弾くことは大切ではないとおっしゃっていましたが、今回はわりと豊かな音で華やかな演奏も評価されていた印象でした。何か、新しい流れがきているということなのでしょうか。

大きな音で弾くということについては、実際、もし大きな音で弾きすぎなければ通っていた可能性もあるかなというコンテスタントもいらしたと私は思います。その方などは、弾き始めはとてもバランスの取れたいい演奏だったのですけれど。
でも、若い頃は、これだけやらないと伝わらないのでは、と思ってしまいがちなのですよね。私自身もそうでしたからわかりますけれど。そこをなんとか耳で聴いて、考えなくてはいけません。指で弾くよりも、耳で聴くことが大切です。結局重要なのは、聴き手に感動を与えられるかどうかです。

—自分のまわりの音と、やっていることに入り込みすぎてしまうと、聴けているつもりで聴けなくなってしまうということでしょうか。

そうそうそう。逆に、ちゃんと聴けている人はすぐにわかります。音が違いますからね。……でも、言うのは簡単ですが、やるのは大変なんですよね。

—それとピアノについてですが、今回は、上位入賞者たちがいろいろなメーカーのピアノを弾いていましたね。初めはスタインウェイがとても多くて。

いい音でしたね、スタインウェイ。すごくよかった。
シゲルカワイも、ガジェヴさんがいい音を出してくれていました。
イタリアのアルメリーニさんはファツィオリ、ガルシア・ガルシアさんもファツィオリを弾いていましたけれど、深みもあるまた全然違った種類の音を出していて。あのファツィオリからそういう音が出てくるのを聴いて、すごいなと思いましたね。

—あとは、ファイナリストに17歳が3人いらっしゃいましたが、結果的に上位入賞することが難しかったのは、成熟度も求められていたからでしょうか…年齢は関係ないかもしれませんが。

そうですね、年齢は関係ありませんけれど。
ただ、聴こえてくる音楽がよく練られているかどうかは、音を聴けばわかります。音が彫刻されているか、しっかり何かが刻み込まれているか。これはやっぱり時間がかかることなんですね。
コンクールというものは、みんな自分のために出るものですから、結果以上に、この機会を使って自分がいかに伸びていくかを大切にしたほうがいいと思います。アーティストとしての人生は長いですからね。実際、一番になったら一番になったで大変ですよ。すごい責任のあることですから。

—ブルースさんは、それを越えてゆけそうなピアニストだった、ということですね。

それを願いますよね。

***
ピオトル・パレチニさん

◎ぶらあぼONLINEピオトル・パレチニさんインタビューはこちら

—コンクールが始まる前、パレチニ先生にもショパンらしい演奏とは何かということについてインタビューをさせていただきました。今回のコンクールでも、審査員のマジョリティが認めるショパニストが選ばれたということですね。

そうです、マジョリティの意見です。私の意見では、1位は該当なしでもいいのではないかと思いましたが、そうはできないルールなので。
今回の結果には、聴衆のリアクションも影響があったと思います。優勝者はその後、メディアに出て、ある意味、商品として世の中に出て行くのですから、人々がこの先何年もコンサートに行きたいとならなくてはいけない。これは審査員も重要だと考える点です。
いわばコンクールが終わって、入賞者たちにとっては、明日からもっと難しい新たなコンクールがはじまるようなものです。私もそれを50年生き抜いて今があるのでわかりますが、コンクールから当面は、自分が疲れていようが調子が悪かろうが、聴衆はみんないつも最高のレベルを期待してくる。とても厳しいのです。
入賞者たちは、審査員の決断が正しかったと、全てのコンサートで示さないといけません。なにしろ、他にも多くの若いピアニストたちがこのチャンスにかけていたなかで選ばれたのですから。

—そういうタフさも考慮に入れての結果だったのですね。

そうですね。
17人の審査員は、ショパンのスペシャリストで、単に優れたピアニストや教授というだけではななく、ショパンに人生を注いだ人のはずです。人よりもショパンについて多くのことを知っているはずですから、決断を信じなくてはいけません。私も、私の意見がいつも正しいとは限らないと思うようにしています。

—いろいろなお考えの審査員がいるほうが、良い決断につながるのでしょうか。

みんながそれぞれの美学を持つことで、ショパンの演奏にいろいろな可能性が出るのは良いことだと思います。もちろん、ショパンに反していないことは重要ですが。
ショパンコンクールはショパンだけしか演奏しない、いわばモノグラフィックな場ですから、優れたピアニストであるだけでなく、ショパンをちゃんと感じ、ショパンのスタイル、温度で演奏をしないといけない。ベートーヴェンやラフマニノフのように弾いてはいけない。ヴィルトゥオジティを見せつける必要もないし、アクセッシヴに鍵盤に力をかける必要もない。
ショパンはそういうものではなかった。だからこそショパンは世界で受け入れられ、同時に難しいとされてきたんですけどね…。

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ダン・タイ・ソンさん

◎ぶらあぼONLINEダン・タイ・ソンさんインタビューはこちら

—あなたのもとでたくさんのアジアの優れたピアニストが育成され、前回に続き今回も、ショパンコンクールで入賞を果たしました。ご自身で、こうしたアジア系のピアニストの活躍を支えているという手応えはありますか?

アジア人といっても、ある人はアジアで生まれ育っているし、ある人は海外で生まれ育っていますが。
今回のコンクールには、私の生徒が6人参加しています。そのうち2次に進んだのは4人ですが、繊細だったり情熱的だったり、それぞれがまったく別のタイプです。私はむしろ、これがとてもおもしろいと思っています。最近は、自分と同じタイプの演奏では、私を満足させるのが難しいところもある。一方で、自分のイマジネーションとまった違う演奏を聴かせてくれると、突然、何かを発見したかのような気持ちになり、喜びを感じるんですね。

—アジアのピアニストの多くは、体格などが欧米の方々と違うことも多いですね。音の作り方の面で、どうしても違うなと思うことはありますか。

そうですね、音の作り方だけでなく、むしろパーソナリティの違いの方が大きいかもしれません。ヨーロッパのピアニストからは、やはりより強いパーソナリティが感じられます。みなさんわかっていることだと思いますが、やはり、ライフスタイルの影響でしょう。
私も日本に4年住んだことがありますが、社会が個性を伸ばしていくということを積極的に支援しない傾向があると思います。これは、中国やベトナムも同じです。周りのやり方にならったほうがいいという感覚が、生活の中で形成されてしまうのです。でも、西洋は違います。自由に、自分のしたいようにする人が多い。
こうした違いが、アートにも影響してしまいます。アジアで育つと、心を開いたり自分のイマジネーションを広げていく癖がつきにくいのです。でもその意味で、アジア人でも海外で生まれ育った人はまた別ですね。そこには可能性があるでしょう。例えばシャオユーはパリで生まれています。それはかなり大きな違いでしょうね。

—ではあなたはご自分のアジア人の生徒たちに、心を開き、変わるように言っているのですね。

もちろんです。ただ、シャオユーについては、良いバランスをとらせるということが重要でした。彼の本質を大切に伸ばすと同時に、ショパンのスタイルを忘れさせないようにしました。
ポロネーズやマズルカのタイミング、リズム。加えて音量の問題。ショパンのフォルテと、ブラームス、ベートーヴェン、プロコフィエフのフォルテは違うということを理解させたうえで、バランスを保ちながら、自由な音楽をさせる。コンクールでは、ショパンのスタイルをはみ出してしまえば、落とされてしまいますから。
私はまず、生徒が最初に持ってきた演奏を聴いて、そのアイデアがやりすぎかどうかを話し合います。でも、こう演奏しないといけないということは絶対に言いません。そこから、説得力のある表現を求めていきます。
ただ今回私は、たくさんの生徒をこのコンクールに連れてきてしまいました…そのせいで落とされなくてはならなかった子がいたかもしれない。もしかしたらこれは今後、私自身が考えなくてはいけないことなのかもしれません。あまりにもたくさんの生徒を連れて来ると、残念な結果になるという。でもこのコンクールは、あとで採点表が発表されますから、いいですね。
ショパンコンクールで評価される演奏には、二つのタイプがあります。まずひとつは、ショパンに対して特別な態度で臨み、深くショパンとつながっているショパニストであること。もうひとつは、それほどショパンにスペシャライズしていないかもしれないけど、一般的に大変ハイクラスなピアニストであるということ。
過去の優勝者を見ても、例えばアルゲリッチはショパンのスペシャリストだと思いますが、ポリーニやオールソンは少しタイプが違います。別のカテゴリーなんですよね。

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クシシュトフ・ヤブウォンスキさん

◎ぶらあぼONLINEクシシュトフ・ヤブウォンスキさんインタビューはこちら

—今回の日本人入賞者の反田さんと小林さんの演奏について、一言ずつご感想をいただけませんか。

日本人がファイナリストに残り、入賞したことはものすごく嬉しいです。ただ私としては、彼ら両方の音楽に、より求めるところはありました。
反田さんは、私がつけた順位とは違いましたけれど、入賞にふさわしいとは思いました。良いピアニストです。私の友人が、彼の演奏は、日本とポーランドをはじめ、国際的なフレーバーを全てのフレーズに加えることで、すばらしいエンターテイメントを創り上げていると言っていましたが、実際それがうまくいって、美しい演奏になっているのです。彼はプロフェッショナルでした。あと、2次はよかったですね。
小林さんの演奏に感じたのは、クリエイティヴィティがどこまで許されるのかということです。色彩を感じる個性を持った演奏で、すばらしいパッションもありました。

—では、ショパンの作品を正しく解釈して演奏するにはどうしたらいいのでしょうか。

私が思うに、ショパンにおいて大切な一つのことは、シンプルであるということです。シンプルであるということは、素朴であるということとも違います。人と違う演奏をするためにシンプルさを求めるのも間違いです。
音楽からこれまでにない何かを見つけようというアプローチは、何もかも捻じ曲げてしまう。それがどれだけ聴衆に関心を抱かせ、納得させようとも、真実を歪めたものでしかない。とにかく、ただひたすらに美を求めて演奏すればいいのです。それが成功の鍵です。
今の若いピアニストを見ていると、事前にYoutubeなどで何百回でも演奏を聴くことができるので、ちゃんとテクストを読む前から解釈をしようとうする傾向にあると思います。たくさんの録音があるなか、そのどれに従うべきかもわからずにそうしてしまう。大ピアニストとされる人ですら、時には楽譜に基づいて弾いていないこともあります。巨匠がこう弾いていたからということは、あなたがそのように弾く理由にはならないのです。
天才作曲家たちはとても明瞭に作品を書いています。そこに書かれているのはpなのか、スラーはどこで終わっているのか、アクセントが付いているけれどそれは何を意味しているのか。考えなくてはいけません。
例えばあなたが気に入った絵画を買ってきて家に飾ったら、毎日それを見て、何年経ってもすばらしいと思えるでしょう。ある日、ちょっと変えてみよう、なんだかグレイでつまらないから色を加えてみよう、などということはしませんよね。それをしたらもうそれは別の作品で、元の美しさは壊されてしまっています。

—ショパンの理解について新しい時代が来たのかな、などとも思ったのですが。新しいタームとか、新しいスタイルとか…。

ショパンの新しいスタイルなんていうものはありませんよ。それは単なるディレッタンティズムです。
今、このコンクールがショパンの音楽の姿を歪める方に向かう扉を開けてしまったとして、もし今後もその方向に突き進んで、誰も止めることがなければ、ショパンコンクールは終わりだと思います。その先はショパンコンクールと呼ばれるべきではありません。最もクリエイティブで才能のある個性のためのコンクール、とすべきですね。