カワイ調律師さんインタビュー[チャイコフスキー国際コンクールのピアノ]

続いては、カワイのコンサートグランド、Shigeru Kawaiの担当調律師、大久保英質さんのお話です。

Shigeru Kawaiといえば、一時期「自らが満足できるピアノは存在しない」と言ってピアニストの活動をやめていたミハイル・プレトニョフさんが、このピアノに出会って、ピアニストとしての演奏活動に戻ってきたということでも知られていますね。ちょうどこの6月に来日していて、私もモスクワにくる直前にリサイタルを聴きました。
ベートーヴェンの「熱情」は、今回このコンクールでもたくさん弾かれましたが、プレトニョフさんの演奏は当然こうした若いピアニストたちのものとは全く違う、一貫して柔らかい音だけをじわじわと重ねていく音楽。そして後半は、リストの作品から、暗く鬱々とした曲と明るめの曲が交互にプログラミングされている不思議な構成でしたが、柔らかい音だけでアップダウンを繰り返して聴き手に陶酔をもたらす…そして最後のクライマックスへ。
天才であり策士(もちろん超絶いい意味での)。そんなプレトニョフさんの表現したいことに応える楽器が、このShigeru Kawaiということでしょう。
大久保さんは、プレトニョフさんを担当するKAWAIの調律師さんの一人でもあるので、ここぞとばかりにそのお話も聞いてきました。

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大久保英質さん

—チャイコフスキーコンクールの調律を担当されるにあたって、特に意識したことはあるのでしょうか?

このコンクールは初めてだったので、モスクワ音楽院大ホールという会場で、ステージでこう聴こえるとホールではこう聴こえているということをつかむのに少し苦労しました。ロシアものが多く演奏されて、しかも演奏者もパワーとテクニックのある方が多いということ、ロシアという国の音楽や空気感を意識した部分もありますが、最終的には、カワイのピアノの良さが出せればということを一番大切にしました。
ピアノを根底から変えることはできないので、その中で最も良い状態に持っていくということです。僕は、人生ほぼ全てカワイのピアノだけを扱ってきているので、カワイのピアノが最高にいい楽器になるようにということだけを考えてピアノに向き合っているというのが正直なところです。

—慣れていないホールに音をあわせていくときは、何を聴いているのでしょうか?

そこは演奏家と一緒かもしれませんが、なるべく常に耳は向こうの客席のほうにあるような感覚で聴いています。

—ああ…前にピアニストの横山幸雄さんに夢を聞いたら「耳が30メートル伸びてほしい」っていってたことがあったんですが(※その記事はこちらから読めます)、それと同じですね。

そう、本当にそれですね。ホールで仕事をしていることでだんだん慣れていくものではありますが、やっぱり何度も経験しているホールと初めてのホールでは勝手が違います。会場に慣れていくにつれて良くなっていくというのが現状ですね。

—今回のコンクールに持ってきたのは、どんなピアノですか?

日本で選定をした1台と、モスクワのホールで何年か使っていたピアノを手入れした1台を、この会場のステージに上げて選定しました。そして最終的に、モスクワのホールで使っていた方のピアノをコンクールに出しました。

—Shigeru Kawaiの魅力はなんでしょうか?

まずは大きな特徴があって、弱音の美しさ。そして、音色の多さ。そこだけは譲れない、いつも大事にしているところです。加えて、マックスの音量には天井がないという十分な音量感も大切にしています。
太い音、細い音、きれいないい音だけでなく、少し変わった音、ザラついた音なんかも出るような、あらゆる音のカラーが表現できるピアノだと思います。

—ところで、プレトニョフさんはShigeru Kawaiのどんなところを気に入っていらっしゃるのでしょうか?

カワイの弱音の美しさのようです。プレトニョフさんが弾くピアノには、普段とはまた別の音作りがあります。楽器自体は同じShigeru Kawaiですが、音作り、タッチは、彼特別の、普通よりさらにやわらかい音を調整します。
プレトニョフさんが言うには、現代のピアノはホールが大きくなるにつれてどんどん音量重視になっていき、大音量は出るけれど、本来の音楽の美しさ、ピアニシモが出しにくいということです。彼のテクニックを持ってしても求めているような弱音を出せる楽器がなくなってしまったから、やめてしまったんですね。自分にはフォルティシモを出す技術はあるからいいけれど、美しい本当の最弱音は、ピアノが助けてくれないと出せない。どんなに気をつけてもパーンと出てしまう楽器の音は、コントロールできない。そんななかで、Shigeru Kawaiでは求める弱音が出せたことで、選んでくださっているようです。
そもそも、音楽のダイナミックレンジは、弱音を下げれば、フォルテではそんな爆音を出さなくても十分に感じられるものですしね。

—今回は中国の長江というピアノが初めて参加しましたが、どう感じていますか?

日本も初めて国際コンクールの舞台に出たときは、クラシック後進国のピアノが弾かれるのかというところからスタートし、ここまでやってきました。しばらくの間、コンクールは固まったメーカーでやってきた中こうして新しい楽器が出てきたことは、脅威でもあり、同時にこれがまたピアノの発展につながるんだろうなと感じています。正直言って、長江を聴いて驚きました。創業してまだ長くないのにあのレベルだというのは…。それを真摯に受け止めて、いい意味で競争をして、楽器を良くしていかないといけないんだなと思っています。

—コンクールで成功する秘訣はなんですか、と聞かれたら、どうお答えになりますか。

難しいですが、メーカーとして結果を残すという意味でいうなら、全ては準備がどれだけできているかだと思います。カワイの魅力が最大限に発揮できる楽器が準備できているか。他のピアノの真似はできませんから、カワイの究極をつきつめたピアノが用意できているかということです。
普段どれだけカワイを気に入って使ってくれているピアニストでも、そのコンクールでのピアノが本当にいい状態でないと、選んでもらえません。逆にピアノが良ければ、今まで全く交流のなかったピアニストでも弾いてくれます。うちは、なぜかそういうケースのほうが多いんですけれど。

—調律師をやっていて良かったと思うのはどういうときでしょうか。

演奏後の笑顔を見るときです。もう、そのためだけにやっているという感じですね…。コンクールの仕事はとにかく苦痛が多いのですが(笑)、唯一の救いは、ピアニストから、ピアノが本当に良いと言ってもらえることです。どんなに辛くても、良かったなと思える瞬間ですね。

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カワイの調律師さんは、コンクール中、アーティストから要望を聞いたりするケアもご自身で細かくやっているので、ピアニストから厚い信頼を寄せられているところをよく見かけます。
大久保さん、これまでにもさまざまな国際コンクールの調律を担当されていますが、6月上旬に行われていた仙台コンクールでもメイン・チューナーを務めていたので、今月は国際コンクールの調律ハシゴというなかなか大変そうな暮らしを送っていました。ちなみに昨年末の浜松コンクールもご担当。
半年余りで3つも大きなコンクール…自分だったらストレス過多で、途中で暴れ出すかもしれない…。大変なお仕事です。

 

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ヤマハ調律師さんインタビュー[チャイコフスキー国際コンクールのピアノ]

今回のチャイコフスキー国際コンクールでは、前述の通り、5メーカーのピアノが舞台にあがりました。コンクール開始前、各コンテスタントは舞台に置かれたこの5台を試弾し、コンクールでの舞台をともにするパートナーを選びます。

普通、試弾時間は15分くらいというコンクールが多いですが、今回は一人30分ずつ試し弾きの時間が与えられたそうです。
全部のピアノを満遍なく試してみる人、最後まであきらかに迷って行ったり来たりする人、だいたい目星をつけていたのだろうなという感じで1台に決めこみ、そのピアノでほぼ練習時間のように時間を活用する人など、さまざまな様子が見られたようです。本番のステージとピアノで練習できるのはこの時が最初で最後です。

数日間にわたって行われるセレクションでは、初日が大切だとも言われます。というのも、限られた時間の中でピアノを選ばなくてはならないため、みんな事前の情報収集に必死だから。「あのピアノよくなかった」みたいな噂が伝わると、まともに触ってすらもらえないということが起きるのだそうです。

どんなにいい楽器を準備してきても、選んでもらえなければ、そして選んだピアニストに合っていなければ、いい結果は出ない。審査員が持つ印象の影響もある。
ピアノメーカーの戦いは、単に自分たちががんばればそれでいいともいかないので、なかなか大変です。
そんななかでコンクールにメーカーさんがピアノを出す理由については、以前のコンクール特集内の記事でもご紹介しています。

優れた調律師さんたちは、ピアニストばりにちょっと変わった方といいますか…アーティスト的な方が多く、それでいて職人気質なので、淡々とした雰囲気を持ち合わせているという、なかなかお話の掘りがいのある方々です。
そんなわけで、今回も一部のメーカーのメイン・チューナーさんにお話を伺ってみました。同じ質問をしても、みなさん答えることが違っておもしろい。

まずは、ヤマハのコンサートグランドCFXの担当調律師、前田真也さんのお話から。
ヤマハのピアノは、今回1次で25人中9人のコンテスタントが選択しました。前田さん、今回のチャイコフスキーコンクールが、国際コンクールのメイン・チューナーを務める初めての経験だそうです(これまでにも、先輩調律師さんのサブを担当することはあったそうですが。サブ調律師さんのお仕事も、調律の立会いや練習室のピアノの調律などで、すごく大変なんですけどね…)。

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前田
真也さん

―国際コンクールでメイン・チューナーとして調律を担当されるのは初めてということですが、どんな意気込みを持って臨まれましたか。実際に担当してみていかがでしたか?

これまで、前回のチャイコフスキーコンクールやショパンコンクール、浜松コンクールなどで、先輩方の仕事を見せてもらってきました。今回は初めての中、その経験からイメージを固めて進めてきました。チャイコフスキーコンクールは、演奏される曲も大きいので、まずは単純にしっかり調律をすることだけでも大変です。

―チャイコフスキーコンクールのレパートリーを意識して目指した調整はありますか?

これまでロシアに滞在する中で持つようになっていたイメージから、とにかく打たれ強い、へこたれない楽器を目指そうと思いました。強い入力に対しても負けない楽器、音が潰れることのない楽器です。それをまず実現させてから、細かいところを調整していこうと思いました。

―今回は1次でたくさんのピアニストがヤマハを選びました。選ばれた秘訣はなんでしょうか?

秘訣…そうですね、まず、弾きやすいようにタッチを丁寧に調整しました。そして、打たれ強さ、さらに、客席に飛ぶような音でありつつ、ピアニスト側にわかりやすいという、バランスのとれたピアノを心がけました。こうした積み重ねでたくさんのピアニストに選んでもらうことができたのかなと思っています。

―モスクワ音楽院の大ホールは、2階には音がよく飛ぶけれど、審査員が座っている1階の前方にはなかなかそういかないようですね。今回はそんな音響の会場でピアノを調整をするにあたって、どんなことを心がけましたか。

僕の印象では、ステージ上で聴く音と1階席で聴く音に、そんなに差はないと感じたので、調整をする時には、こっちで聞くとこうだからということはあまり意識しないで、そこの場所でちゃんと聴こえる音を作れば届くと考えていました。それは、これまで何回かこの会場でのコンサートを経験して感じていたことです。

―ご自分のピアノを選んだ人が弾いているときは、どんな心境でいらしゃるのでしょうか?

今回はとくにきれいな音で弾いてくれる人が多かったので、楽しんで聴いていました。だんだん大きな曲になっていくと、調律が狂わないかと少しそわそわしましたが…。

―あまり緊張されないほうなんですね? 御社の調律師さんでも、いろんなタイプの方がいらっしゃるように思いますが。

そうですね、僕は割と緊張しなくて。でも、やることはやったしという感じがあるからですかね。

―調律師さんの仕事で一番大切なことは何だと思いますか?

ピアノと向き合う時は、その楽器の性能をいかに最大限に引き出せるかが、僕の中の大事なテーマです。今回の楽器も、いかに僕が思う最大限の良い状態にできるか、楽器のいいところを全部出せるようにするかという視点でやっています。そうすると、どんなプログラムが演奏されても許容量が増えていきます。それぞれのピアニストから何でも引き出してもらえる状態にできたらいいなと思っています。

―ピアノを良い状態にしたら、そのあと演奏するのは当然ながらピアニストですよね。そんなピアニストとのコミュニケーションや、要望のケアはどのようにされるのでしょうか?

コミュニケーションができるときには、その都度読みとって、ここだろうというものを出してあげられるように調整します。今回についていえば、部分的な調整くらいで、大きなリクエストは特にありませんでした。わりと自分の思う完成図のままいくことができました。

―今回、チャイコフスキーコンクールのために選んだ1台はどんな楽器なのですか?

(コンサートピアノ推進グループ 田所さん)開発を続け、試作品がたくさんあるなかで、チャイコフスキーコンクールに適したものはどのピアノかを社内で話し合って選定しました。

―今回から、中国の長江という楽器が加わりました。どんな印象を持ちましたか? また、この状況をどう感じていますか?

初めて見る楽器でしたがいい印象ですし、うちのピアノにないものも感じます。
コンクールでは、他の楽器とはっきり比較できるので、技術者としては、自分たちの楽器がどういう位置にあるのかを把握する意味で、とても興味のある現場です。本当は他のメーカーの楽器も触ってみたいし、技術者とも話をしてみたいくらいです。

―コンサートの調律とコンクールの調律は違いますか?

特に違いはないです。まだ経験が浅いからかもしれませんが、根本的なところは特に変わりません。

―それでは、目指している理想のピアノや音のイメージは?

自然で無理のない音が出せるピアノです。小さすぎもせず、無理に大きすぎもせず、できる限り自然な状態が一番いいと思っています。大きな音を出してやろうという感じになっていないというか。楽器自体がリラックスした状態です。そんなピアノからは、一番いい音が出ると思います。

―ヤマハCFXの魅力はどんなところにありますか?

一番は、細かいところまで音がクリアに聴こえるところだと思います。そして、均一性、コントロール性、弾きやすさも特徴です。もちろん、合う人、合わない人はいるかもしれませんが。華やかな音が出しやすく、音色にも魅力があると思います。

―調律師さんを目指されたきっかけは?

父親が調律師でした。ただ、父を継いだとかではなく、大学時代に進路を考えたとき、技術系の仕事はおもしろいし向いていると思って、一番身近だった調律師の仕事に関心を持った形です。もともと父の仕事がどういうものなのかはよく知りませんでしたが、興味を持つようになって現場についていって、なんだ、これならできそうだと思って入ってみたら、実際は意外と大変だったという感じです(笑)。

―コンクールの調律で一番大変なことは何でしょうか?

調律が狂わないようにすることが、まず一番気になるし、苦労するところですね。

―調律の持ち時間も限られている中での作業となりますし…。

そうですね、時間がたくさんあれば良いですが。限られた時間の中でその時の状態をみて、どれだけのことができるかと考えて作業をしています。

―ずっとやっていて良いといわれたら、やっていたい感じ?

…ずっとはやらないです! できることはは無限大ではないので。それこそ、その楽器が一番リラックスした状態になったと思えたら、そこで作業は終わりです。

―コンクールの場合は、楽器自体が良いことに加えて、コンテスタントに選んでもらうことが必須になると思いますが、そのために心がけることはありますか?

そうですね、第一印象は一瞬で決まってしまうので、そこでなんとか引き止められるようなタッチと音が必要になります。出る音があまりにも他のメーカーとかけ離れていると、選択肢から外される可能性も高くなってしまうので、気をつけています。ピアニストから最初に気に入っていただけるようにというのは、普段のコンサートと同じです。

―セレクションは初日が大切だと言いますが、どんな気持ちでしたか?

僕にとっては初めてのコンクールなので、なるようになるだろうという気持ちで臨みました…。今までの調律師のみなさんが積み上げてきてくださったものがあるので、自由にやらせてもらっています。

―では、コンクールで成功を収めるためのポイント、秘訣は何かと聞かれたら…どうお答えになりますか?

ブレずに、自分を曲げずにいるということです。もちろん、柔軟に対応すべきところはそうしますが、まずは自分の感性に従ってやるということだと思います。

―調律師をやっていて良かったと思う瞬間はどんなときですか?

2次でも、例えば最後のキムさんがとてもきれいに弾いてくれて、聴衆もすごく喜んでいましたが、ああいうみんなハッピーになってるんだろうなという瞬間が、やっぱり嬉しいです。

―ご自分が調整した楽器がそこにあって…

そうじゃなくても、みんなハッピーならハッピーなんですけど(笑)、でももちろん、そこに関われていたらいいなという感じですね。

―ホールで音作りをしている間は、何を聴いてるのでしょうか。

ピアノの音…なのですが、自分がやったことに対しての変化がわかるようになってくることで、いろいろな表現ができるようになります。
また、普段ポップスを聴いたり、自分で打楽器を叩いたりしたときの感触が、ピアノの音と結び付くようになってきて。経験を積むにつれて、その辺りの感覚が変わって来ています。何か新しいものを発見したときに、自分で実感している感触と結び付けながら、その感触を逃さないように、経験を積み上げていきたいです。

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前田さんは、ヤマハの若手調律師さんのホープ的な存在なのでしょう。
1980年代後半から国際コンクールの舞台で調律を手がけてきた世代の技術と経験が受け継がれ、前田さんのリラックスした感性が、リラックスした状態のピアノを目指す。そして、ピアニストもリラックスした状態で演奏できるのが一番。
前田さんの手がけたピアノのまわりには、良いリラックスがうずまいて、自由で解放された音楽が生まれる、ということでしょうか!

CFX