チャイコフスキー国際コンクール第2位、藤田真央 さんのお話

続いては、チャイコフスキー国際コンクールピアノ部門第2位に入賞した藤田真央さんのお話です。お待たせいたしました。

現地ではなんとなく立ち話などをする機会も多かったので、いつでもインタビューできるだろうと油断してしまい、あとで…と言っているうちに、前述の通りの強行スケジュールのためご本人グッタリという展開。そんなわけで、ロシアで少し聞いたお話と、帰国後のコンサートのあとに聞いたお話の合体したインタビューとなっています。

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結果発表終了後の藤田真央さん。
普段はしないというダブルピース(2位ポーズ)で。

◇◇◇
[まずはモスクワ現地でのインタビューから]

ーモスクワ音楽院大ホールという会場でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を弾いてみて、いかがでしたか?

難しいなと思いました。日本で弾いたこともありましたが、その時はもう少し楽に弾くことができたんです。でも、やはりあのホールだと、特別な雰囲気を感じるところがあって。

ーチャイコフスキーの他にラフマニノフの3番を選びました。選曲の理由は?

2曲を組み合わせるならこの選択だなと思ったのと、あとは中村紘子先生のお気に入りの曲だということもあります。以前いただいたお手紙の中に、ラフマニノフの3番をロシアのお客さんの前で演奏するときは、終楽章のリズミカルに進んでいく部分は、しっかりリズムをわからせるように演奏しないといけないと書いてありました。まるでこのファイナルを予言していたみたいですよね。演奏しているときにも、もちろんそのことを思い出しました。でも、倍速のテンポで弾いてしまっていたので、もういいやって途中で思いましたけれど(笑)。

ーそういえば1曲目のあと、いつもと違って笑っていなかったですよね。あれはどういうことだったんですか?

自分の演奏に満足していなかったからですね…でも切り替えなきゃいけないと思いながら。

ー2曲連続で弾かなくてはならないのは大変でしたか?

辛かったですね。2曲目のラフマニノフの1楽章が一番辛かったです。2、3楽章は終わりが見えてくるから少しずつ楽になっていくんですけれど。でもまあ、そんなことは言っていられませんから、全ての音を大切に弾くということに集中していました。

ーステージに出る前には、必ず中村紘子先生と撮った写真を見ていたとか。

そうなんです、もうルーティンのひとつになっています。眺めて、お祈りするんです。「お助けください、どうかお力添えを〜!」って。

ーすごい…やっぱり特別な存在なんですか。

それはもう、特別ですね。今まで会った人の中で、誰よりも一番オーラがすごい方です。最初にお会いしたときの目力が本当にすごかった。小柄な方なのに、とっても大きく見えました。

ー1次予選の時は、ステージにかかっているチャイコフスキーの肖像に挨拶をしたとおっしゃっていましたね。

全ラウンドしましたよ! 「日本から来たんです」って。

ーなんだか神社にお参りするみたいな(居住地言うなんて)。

そうそう。2次予選は、「また来ました」、ファイナルは、「これで最後です」と伝えてから演奏しました(笑)。

ーサンクトペテルブルクのガラコンサートでは、ゲルギエフさんと共演しました。いかがでしたか?

本当に素晴らしい経験でした。一瞬で終わってしまった感じです。リハーサルもないなかで、最初テンポがすごく速くなってしまったのですが、テーマが繰り返されるうちにだんだん落ち着いていきました。演奏が終わったあと、ゲルギエフさんが、君のモーツァルトも聴いたけれど美しかった、またすぐに共演しようと言ってくださって、嬉しかったです。

ー今回、ピアノは5台のなかからスタインウェイを演奏しました。選んだポイントは?

音ですね。結局、音で勝負するしかありませんから。どんなに全ての音が均等にそろっていようと、自分の音が出せる、美しい音が出せるということにはかえられません。あとは、音色を変えて演奏することが好きなので、その変化をつけやすいピアノがいいですね。他のピアノとも迷いましたが、最終的には、いつも使っているスタインウェイを選びました。

ー演奏を聴いていると、フレーズごとに音も表現もどんどん変わっていくのが本当におもしろかったのですが、ああいうのは天然で出てくることなのですか?

それは野島先生に教わったことです。作曲家は無駄な音は作曲家は書かないから、全ての音を気を配って演奏しなくてはならないと。

ーモスクワのお客さんがどんどん入り込んでいくのは、ステージでも肌で感じました?

はい、やはりすごく嬉しかったですね。日本のお客さんとはまた違った雰囲気で、おもしろい発見でした。

ーロシアのメディアでは、ベビー・マオとか、猫のお父さんだとか、いろいろなあだ名がつけられていたみたいで。

思わぬ反響でびっくりしましたねー。そんなに注目していただけるなんてうれしいです。

ーコンクールが終わった今、始まる前と変わったことはありますか?

音楽的な面でも変わることができたし、大ホールで弾くという経験を何度もして、大きな会場になれることもできたと思います。こういう環境の中で弾く経験は今までありませんでしたから、このあとは日本のコンサートでも楽に弾くことができるのではないかと思います。

[ここからは、帰国後、7月中旬にお聞きしたお話です]

ー日本に帰国して、周りの反応はどうでしたか?

大学に行った最初の日は、ちょっとざわついてましたねー、みんな私のほうを見ている!って。で、3日目くらいに、なんにもなくなった(笑)。普通の人に戻っちゃった(笑)。

ー3日か…みんな慣れるの早いですね。チャイコフスキーコンクールで2位になったのだという実感は湧いてきていますか?

チャイコフスキーコンクールって、これまで見ていた印象では、過酷な戦いに駆り出されるみたいな勢いで参加するものだと思っていたのですが、実際は、ひょいひょいひょーいっと次のステージに行ってしまった感じでした。モスクワには何もないって聞いていたから、日本からカレーとかうどんとかを持っていったのに、レストランもいろいろあったから、コンクール中は普通に楽しかったですね。有意義な2週間を過ごして、帰ってきたらなんだかみんなが騒いでるっていう感じでした(笑)。

ーひょいひょい行ってたの、藤田さんくらいだったんじゃないかという気もしますが…他のコンテスタントはそれなりに大変そうでしたけどね。とはいえ、コンクール中、集中力を保つのは大変だったのでは?

うーん、でも結局、本当に集中しなくてはいけないのは演奏している1時間ですからね。24時間気を張っていなくてはいけないという環境でもなかったので、いつも通り音楽を楽しんでいました。その場のインスピレーションもありますし、音楽のすばらしさを伝えるといういつも大切にしていることを、同じようにやっていました。

ー今思い返して、コンクール中で一番印象に残っていることは?

一次の時ですね。もともとバッハを弾くのがこわくてたまらなくて、当日は1日中練習していたんです。毎回違う所をミスしてしまったり、フーガがうまく弾けなかったりして。でも本番でそれをしっかり弾き終えられた瞬間、心配がなんにもなくなりました。それで、あのモーツァルトの演奏ができたのだと思います。すごく楽しく弾けたんです。全ての流れがあそこで作られたと思います。

ー2位という結果についてはどう感じていますか?

帰ってから野島稔先生にも、2位で良かったね、まだ勉強できるからと言われました。「クララ・ハスキルで優勝してからの2年でも、またこのコンクールの期間でも上達したから、君にはまだ伸びしろがある、もっといろいろな解釈を広げられるように勉強しないといけない、2位でも忙しくはなるけれど、まだ勉強する猶予があるから」って。

ーところでそもそも、チャイコフスキーコンクールに挑戦することにした理由は?

やっぱりロシアのピアニストが好きだからです。ホロヴィッツ、リヒテル、ギレリス……こういう方たちが弾いた場所で弾きたいというのが1番です。あと、チャイコフスキーコンクールのウィキペディアにのりたいっていうのもあったかな、きゃはははは!!(←藤田氏、ものすごく笑う)

ーその動機、初めて聞きました…でも確かに、半永久的に載るってことですもんね。

確認したら、載ってました! うれしかったー(笑)。

ーところで、実際に3週間ロシアで過ごし、ロシアで弾くという経験をしてみて、ロシアやロシア音楽についてのイメージで変化したことはありますか。

ロシアの年齢層の高い方達の顔から時々見える、冷たさみたいなものというか、作られた表情みたいなものに触れて、自分にはないものだなと思いましたね。

ーなるほど…社会主義の時代を経験している世代の雰囲気でしょうか。もう今の若い人たちは、普通にフレンドリーですもんね。

はい。例えば練習室の部屋の鍵をくれる警備員の人が、絶対笑わなかったりとか。でも1回だけ、練習室の番号の45番というのを私がロシア語でいったら、笑ってくれたんですよね。それから、柔道をやっていたという話を向こうからしてくれたりして。少し仲良くなりました。

ーところで、今一番好きなピアニストは?

最近はルプーが好きだったりしました。でも、この頃ピアニストをあんまり聴かなくて。ヌヴーとかデュプレをよく聴いています。あとは、テバルディが好きです。あの時代には、カラスとテバルディが大スターでバチバチに対抗していたんですよね。オペラや歌はとても好きです。オーケストラ作品も聴きます。

ー歌が好きなんですね。では、ピアノを弾く上での歌うような表現についてはどう考えていますか?

音楽の起源は歌ですから、本当に大切ですよね。私、こういうふうにくねくねして弾くから、それで歌っている表現になっていると思います(笑)。

ー藤田さんにとって、ピアノ、音楽とはなんなのでしょうか?

うーん、ピアノは単に、楽器ですよね。ホールによって別のピアノがあって、それにすぐに順応して良い響きを作ることが、ピアニストの難しさです。音楽は、一瞬一瞬変わっていくので、その瞬間の素晴らしさを感じ取っていただきたいという気持ちがあります。つまり、その時ダメでも次はいいかもしれないから、何回も聴きに来てほしいです(笑)。

ー今後、ピアニストとしてどんなことを目指していきたいですか?

クララ・ハスキル、チャイコフスキーとコンクールで賞をいただいたので、その名を背負っていかなくてはいけないという使命感はあります。でも、気負いすぎず、自分のペースで黙々と演奏をしていきたい。そうやって生きて行くつもりです。

◇◇◇

…というわけで以上、ところどころ、ゆるい口調ゆえに冗談なのか本気なのか非常に判別しにくい、独特のユーモアセンスの炸裂した藤田さんのお話でした。

ご本人が言っているとおり、コンクール中現地で見かける藤田さんはいつもほわんとして楽しそうでしたし、今日のお昼はこれを食べたーという報告を、まあまあ詳細にわたってしてくれたのが印象的でした。多分、本当に毎食楽しみにして暮らしていたんだと思います。
とはいえ、なんだかんだでプレッシャーも当然あったはず…それでも日々の時間を楽しもうとしている。藤田さんの場合、そういうエネルギーの差し向け方が、音楽にも反映されているような気がします。
実際、これはコンクールとか音楽家とかそういうことにかかわらず言えることだと思いますが、同じ時間でも楽しもうとして過ごすかどうかで、その時間の位置付けは変わってくるものですもんね。(もちろん、悩まなくてはいけない時間にも価値がありますし、むしろ怒ったりフラストレーションを感じることを原動力に生きている人もいるわけで、それは個人の価値観の問題かもしれません)

それから、中村紘子さんのエピソードにも驚きました。今回の藤田さんのロシアでの活躍で、改めて紘子さんの先見の明に驚かずにいられなかったわけですが、そのうえ、弾く曲や場所まで予見してアドバイスを手紙にしたためていたとは…。そして写真を拝まれている。もはや守り神的存在ですね。
ちなみにそのお手紙を藤田さんが紹介していらっしゃいます。

 

私が書いた中村紘子さんの評伝でも、紘子さんが期待した若手として、藤田真央さんのお名前が登場します。
紘子さんはとにかく、たくさんの聴衆から愛されるようになるピアニストを、まだみんなが気づく前の萌芽的な段階で発見して支える力がすごかった。ただ同時に、みんなに優しいわけでもなかったというのもポイントなんですね。
拙著では、紘子さんは自身の若き日の経験と苦労からああいう感じになったんだなということ、またピアノ界に紘子さんがのこしたことについても分析していますので、気が向いたらどうぞ読んでみてください。(宣伝してすみません)

 

さらに中村紘子さんといえば、ご自身がチャイコフスキーコンクールで審査員を務めた経験からお書きになった名著「チャイコフスキー・コンクール」があります。あの時代の審査員の間でどんなやりとりがとりおこなわれていたのか、そしてピアニストとしてトップを目指すことの厳しさなどを知ることができる貴重な1冊です。


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ところで、写真はこちらの帰国後に撮ったものもあったのですが、最初の画像には、やっぱりあの結果発表直後のダブルピース(2位ポーズ)の写真が喜びにあふれていていいかなと思って使いました。普段はしないポーズなんだけど今回だけ…と藤田くんは言っていました。自分も写真でピースしないほうなんで、気持ちわかる。チャーチルやヒッピーが頭をよぎるんですよね。(※戦前生まれではありません、念のため)
ただ、藤田くんが普段ピースをしない理由は、聞かなかったのでよくわかりません。