兼松講堂で2020年のベートーヴェン・イヤーを目指して行われている、
ベートーヴェン生誕250年(2020)プロジェクト、
6月18日(日)に行われるVol.7『ピアニストたちのベートーヴェン』。
出演ピアニストのインタビュー、三人目は田部京子さんです。
【その他のお二人のインタビューはこちら】
若い頃から「晩年好き」だったという田部さんが演奏するのは、
数年前に録音もしたばかりの後期三大ソナタからの2曲。
◇◇◇
◆田部京子さん
[演目]
ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 Op.109
ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 Op.110
自分の耳で聴くことはできなかった
─今回はベートーヴェン晩年のソナタから、第30番と第31番の2曲を演奏されます。晩年のソナタを弾くことのおもしろさはどんなところに感じますか?
晩年の作品には、作曲家の人生への回想や、どこか希望のようなものまでもが凝縮して投影されるように感じます。とくにベートーヴェンは音楽で人間を表した最初の作曲家で、そんな彼の晩年の作品には、まさに人生の軌跡とあらゆる要素が詰まっていると感じます。
難聴という困難に直面し、挫折や絶望を感じながらもそこから這い上がり、常に革新を求めて生きていく。聴こえないことが日常となる中で、晩年まで自己の音楽世界を熟成させました。膨らんだイメージを音にできるピアノの発展を求め、可能性を追い求めていったのです。
ただ、それを彼は自分の耳で実際の音として聴くことはできなかった。聴こえない世界の中で創造された音楽の奥深さとエネルギーを感じながら、本質に少しずつ近づくことを目指すのが、ベートーヴェン晩年の作品を弾くおもしろさだと思います。
一歩近づけたと思うとまた次の景色が見えてきりがないのですが、そうやって一生かけて追究してゆくものなのだと思います。
─田部さんは2年前に後期三大ソナタを録音されていますが、それによって何か新しい発見はありましたか?
自分の録音は、CDが完成してからは聴くことがあまりないんですよね。自分が弾いているという感覚と客観的な感覚が同居するのが居心地悪くて、今はまだ聴けません(笑)。ちなみに、もっと何年か時間が経つと、先生として生徒の演奏を聴いたり、聴衆として一人のピアニストの演奏を聴いているような客観的な感覚で自分の録音も聴くことができるようになります。
もちろん録音直後の編集の段階では何度も聴きました。録音に臨むにあたっては細部まで突き詰め、全精力を傾けるわけですが、実際、音になっているものとイメージに多少相違があったり、再度楽譜を見返しながら、この表現でよかったのだろうかと考えたりすることもあります。そんな中で成長することができたように思います。
─録音することを決めたきっかけはあるのでしょうか。
昔からどの作曲家についても、人生が凝縮されたような晩年の作品が好きでした。20代のデビュー間もない頃にシューベルトの最後のソナタを、また2011年にブラームスの晩年作品集も録音しています。
ベートーヴェンの最後の3つのソナタには高いハードルを感じていましたが、シューベルトやブラームスの晩年の作品を録音したことで、その源ともいうべき、古典派とロマン派の重要な架け橋となったベートーヴェン晩年のソナタには、やはり取り組むべきだと感じたのです。それを長らく目標にしてきて、今、やるべきときがきたのだと感じて録音しました。
ベートーヴェン晩年のソナタ30番は心のぬくもりや人間味を感じるとても内省的な音楽です。そして31番は、嘆きの歌とフーガが交互に現れ、最後は解き放たれたような希望とともに一気に上り詰めていきます。そして32番は再び絶望に打ちのめされるように始まり、最後は天に向かって昇華するような音楽で閉じられます。
録音するのはまだ早いと思い続けてきたわけですが、これが最後ではないと考えることにして、一度、「今」の記録としてやってみようと決心しました。「今」は、既に「過去」になっていますので、常に「今」を越えた演奏を目指そうという気持ちでいます。ステージも含め、演奏する毎に作品に近づいていく感覚があります。私自身も人生経験を積んでゆく中で共感度が増し、同時に新たな発見もあります。
─お若い頃から晩年の作品がお好きだったのですね。
なぜでしょうね。晩年の作品だからといって、いわゆる「枯れている」わけではないところが興味深いのです。
諦観の要素を感じたりもしますが、どちらかというと若い頃の情熱やエネルギーも音楽の中に含まれ、積み重ねてきたものがすべてそこにあるのが晩年の作品だと私は思います。生と死や、自分がなぜ存在しているのかという普遍的な問いについて考えさせられる部分が強いですね。
そういった人間の本質、作曲家の人生、培ってきた作曲の技法、そのすべてが集約されているところに、若い頃から惹かれていたのだと思います。
そうしてずっと興味を持って、いつか登りたいと思っていた高い山がベートーヴェンの晩年ソナタでした。例えばシューベルトには、長大なメロディをどうつないでいくのかという難しさはありますが、それでもどこか、“感じていることが命”のようなところがあります。息の長いフレーズに身を任せ、シューベルトのささやく声が聞こえれば、音楽はできていきます。
一方でベートーヴェンの作品には、確固たる構築というものがあります。シューベルトがベートーヴェンに憧れたのも、そんなところだったはずです。
巨大な建築物のようなものの中で、古典的な要素、楽器の発展を反映した表現の可能性、ベートーヴェンという人格を感じさせる揺るぎない語法、ロマン派にも通じる感情表現などが存在し、演奏家としてその本質に迫り続けることにやりがいを感じます。
人間そのものを表現するベートーヴェン
─では、ベートーヴェンは田部さんにとってどんな存在ですか。
あらゆるピアノ作品と接する中で「源」のような存在です。
特にドイツ・ロマン派の作品を演奏するうえでの原点だと思います。
─音楽の原点とはいえ、バッハとはまた違う感覚でしょうか?
違いますね。人間の感情、人間そのものを表現している音楽という意味での原点です。
作曲家の感情の音楽表現という点について、例えば自然について考えたとき、音楽で風景を感じさせる描写があると思いますが、実際にその自然を愛し、感じているのは人間なのだということを実感するのがベートーヴェンの音楽です。
─なるほど。自然の風景をそのまま表現することができると思うのは、いわば傲慢といえること。何に関しても、それを感じている人間のフィルターが必ずあるという現実を認識していないと……。
そうなんですよね、散歩をするから、自然を見て、空気と風景を感じる。それをベートーヴェンが自分のフィルターを通して音にしているのが、彼の作品の表現する自然です。
─ところで、国立の兼松講堂へは初めてのご登場ですね。
今までお写真でしか拝見したことがありませんが、とても雰囲気のある建物ですね。国立は、電車で通ったことはあってもなかなか降りる機会がありませんでしたが、並木道があって緑が多く、静かですてきな学園都市というイメージがあります。今回は、国立に行けるということだけでも少しワクワクしていますが、由緒ある兼松講堂で演奏させて頂くことをとても楽しみにしています。
─大学構内も天気が良いと気持ちがいいですよ。
私、晴れ女なんですよ! あとのお二方がどうかわかりませんが(笑)、2対1だったら負けてしまうまかもしれませんし……でも、晴れるといいですね。
◇◇◇
田部さんはしきりに、ベートーヴェンの音楽には人間を感じるとおっしゃっていました。自然の描写からも、人間を感じると。
それを聞いて、「自然の風景をそのまま表現することができると思うのは傲慢だもんなぁ。なにかをどんなに忠実に伝え再現しようと思ったって、それを感じている自分のフィルターが必ず存在することを認識しているかいないかは大違いだもんなぁ」などと改めて考えました。インタビューの原稿だってほんとうにそうです。自分が無味無臭のフィルターになれると思った時点で、間違っている。インドのスラムのリサーチをしている中で痛いほど考えさせられたことでした。…話がそれましたが。
ちなみにその後、男性陣二人が雨男か否かは確かめていませんが、当日は田部さんの晴れ女パワーで、すべての雨男女系来場者を打ち負かしてほしいなと思います!
第31回 くにたち兼松講堂 音楽の森コンサート
ベートーヴェン生誕250年(2020)プロジェクト Vol.7
『ピアニストたちのベートーヴェン』
出演:田部 京子、菊地 裕介、浜野 与志男
ナビゲーター:西原 稔(桐朋学園大学音楽学部教授)
2017年6月18日(日) 14:00 開演 (開場 13:15)
会場:一橋大学兼松講堂(JR国立駅南口 徒歩7分)
前売券:S席 4,500円(指定)/A席3,500円(自由)/学生券 1,500円(自由)