ロマノフスキーとフェンシング

目の前の締め切りに追われていたら、
結局書くのがリサイタルの直前になってしまいました。

アレクサンダー・ロマノフスキー、リサイタルは7月5日です!

2016年7月5日(火) 19:00 紀尾井ホール
シューマン:アラベスク Op. 18
シューマン:トッカータ Op. 7
シューマン:謝肉祭 Op. 9
ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」

インタビュー記事は、これまですでに、
ぶらあぼやジャパン・アーツ公演で配布中のチラシ(たぶん)に掲載されていますが、
今回はそれらの文字数内で書ききれなかった余談などを。

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今回ロマノフスキーが弾くプログラムは、シューマンとムソルグスキー。
どちらも苦悩の中で辛い最期を迎えた作曲家です。

私は、今回ロマさまが「展覧会の絵」をどんなふうに演奏するのか、
なんだかとても興味を持ちました。
この曲は、多くの音楽家、それもジャンルを問わず
いろいろなミュージシャンが手掛ける名作中の名作。
音として純粋に表現したり、内包されるものを自由に膨らませたりする演奏もあれば、
作曲家の精神に寄り添うタイプの演奏もあって、本当にいろいろ。
どちらにもそれぞれの魅力があり、どちらもがアリな楽曲だと思うので、
私としては、ロマさまのような人の場合、
どっち寄りになるのか興味があったわけです。

先のインタビューの折、そのあたりがどっちになるのかの予想をつけたくて、
「ムソルグスキーという人についてはどんな理解をしていますか?
あなたにとって近い? 遠い? 共感する?」
と聞いてみました。ストレートに尋ねなかった。
そうしたら、
「どうしてそんな質問するの?」という、必殺質問がえし…。
(アル中のムソルグスキーに共感するのか、という意図が
質問の裏にあったわけでもないんですが…)

しかしそこはロマさま、優しいほほえみとともにちゃんと答えてくれました。

「すばらしい音楽を創って多くの人から愛されている人物という意味で、
近しく感じる人でもあります。ただ、彼の人生は困難に満ちたものでしたよね。
そんな中で才能を与えられてしまったわけですから、
生きるのが大変だった面もあるでしょう。
大きな才能を与えられてしまった人がどのようにふるまえばいいのか、
その時々でとても難しい問題があったのではないかと思うので」

…才能を与えられてしまった。しかしそれに体や心がついてこない。
そんなムソルグスキーの苦悩について、ちょっと考えたことがありませんでした。
病気になったラヴェルが晩年、自分の頭の中には音楽が流れているのに、
それを楽譜に書き起こせないことを辛いといって涙を流したという逸話を思い出します。

そのほか、この作品について語っていることは
先のリンク先など既出の記事を読んでいただきつつ、
当日どんな演奏になるのか、楽しみにしてほしいと思います。
ちなみに、その翌週同じ「展覧会の絵」をガヴリリュクが弾きますが、
これはまったく違ったものになると思うので、その対比も楽しみ。

ところで、いつもスラリンとしたロマさま、
何かスポーツでもしているのかなと思って、
「演奏家は体力が大事だと思いますけど。何かスポーツは?」
とたずねてみました。
すると、
「演奏家だけじゃなくて、体力はみんな大事でしょ?」
(↑意外といちいちこういうことを言うので、エレガントな空気醸してるけど
ロシア・ウクライナ系の人だったことを思い出させられます…偏見でしょうかすみません)

「スポーツは、やりたいなー、でも時間がないなーっていつも思ってます。
昔フェンシングをやっていたんです。10年くらい前かな。数年間やっていましたよ。
今もやりたいけど時間がないので。秋にはまたやりたい!
フェンシングってすごいんですよ。
1対1のたった3分間のゲームで、20キロのランニングに匹敵するエネルギーを使うそうです。
いくつか種類があるんだけど、僕がやっているのは突きだけが有効のもので、
頭を使わないとできないんです。
相手がどう動くか察するという知力が必要なので、
チャンピオンになるのは30歳前後の選手なんですよ」

フェンシング、似合いそうな気もするけど、
あんなおっとりした雰囲気のロマさまにできるのだろうかという気もする。(失礼)
いや、きっと面をつけたら人が変わったように機敏に動くんでしょう。

しらっとエレガントにしているようで、実は熱い。
演奏もまさにそんな感じで、いつも聴くのがとても楽しみなピアニスト。
紀尾井ホールというちょうどいいサイズで聴けるのも嬉しいです。

JAサイトにメッセージ動画もありますので、どうぞご覧ください。

仙台コンクール、野島審査委員長のお話から

仙台国際音楽コンクールが終わって少し時間が空いてしまいましたが、
野島稔審査委員長のお話を紹介しつつ、今回のコンクールを振り返ってみたいと思います。

合同インタビューに基づく詳しい記事は、後日公式の媒体に寄稿予定ですが、
その時の話から、いくつか気になった点を。

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◇録音のクオリティについて

合同インタビューの最後に付け加えるように野島先生がおっしゃったこのお話に、
けっこうびっくりしました。曰く、
「多くの日本のコンテスタントが予備審査で落ちてしまったが、
録音のクオリティが良いものがあまりなかった。
焦点がはっきりしないというか、お風呂場状態だったり、味も素っ気もないものだったり。
自分の表現したいもの、自分らしい音質をちゃんと録ることができているか
もう少し気を付けたほうが良い」
そしてさらにもう一つ、へぇ、と思ったのは、
「韓国のコンテスタントのDVDはクオリティの良いものが多かった。
なんでだろうと思ったら、現地に良いスタジオがあるということだった」という話。
「こう言うと、プロに頼んでお金をかけとらなくてはいけないと勘違いする人がいるんですが、
そういうことじゃないんですね。センスの問題」と、野島先生。

(そういえば2010年のショパンコンクールで、
アヴデーエワが一度DVD審査で落とされてしまったという話を思い出しました。
それが録音クオリティのせいだったのかはわかりませんが)
多少録音状態に差があっても、本質的な音楽性はわかるかもしれませんが、
やっぱりあまりに酷ければさすがの審査員の先生方でも困るでしょうし、
さらにいえばボーダーラインにいたときは、当然良く録れているほうが評価されるでしょう。
そもそも、その音質で大丈夫だと思ってしまう感覚の持ち主だと示すことにもなりますよね…
もちろん、状況によってどうしても限界があった、という人もいるでしょうが。
ちなみに野島先生が付け加えておっしゃっていたのは、
「ロシア人はそんなにいい録音ではないんだけど、その人の音楽はわかるんですよねぇ」。
…さすがロシアの人々。みんな違ってみんないい、的な教育の成果でしょうか。
録音クオリティという概念を越えて伝わる個性をお持ちの人が多いのか。

◇ファイナルの審査

先の記事にも書きましたが、野島先生のお話を聞いていると、
今回のファイナリストは、何人かについて審査員によって評価がわかれたため、
結果的に平均的に高い評価を受けたピアニストが上位に入ったのではないかと思いました。

そんな状況がうかがえる各入賞者についての野島先生のコメントをごく一部抜粋すると…

「1位から3位の3人に共通していたのは、自覚をもって研鑽を積み、自分の音楽を追求しているという姿勢。そんな中で、1位の彼女には経験と気持ちの余裕があった」
(個々についてもお話がありましたが、それはまた別の場所で)

「4位のシャオユー・リュウさんには非常に光るものがあると思った。音楽に魅力がある。考えた末というより、本能で自然に出てくる音楽という印象。セミファイナルは良いところもたくさんありながら幼い部分がチラチラ見えた感じもあった」
(とくに1次のプロコフィエフ7番を高く評価されていました)

「5位のシン・ツァンヨンさんは、評価が割れたのではないかと思う。音がとても美しいので、私は才能を感じた。あれだけの良い音で弾ききることのできるピアニストは珍しい。ただ、そこに表現として表面的なものを感じたという方もいるようだ」

「6位の坂本彩さんは、1次などは音楽表現が安定していて、自信を持って弾いていてとてもよかった。スタミナもある。一方、自分のものにしきれていない感のある作品を弾いたとき、それをカバーする音の出し方やテクニック面でのひとがんばりがあれば良いと思った」

野島先生は、「自分でも偏っていると思うときもあるのですが…」と前置きしたうえで、
将来性を見るときに一番重視しているのは、音質だとおっしゃっていました。
「音がきれいとか汚いとかの話ではなく、
人の心に届く、目的にかなった表現をするうえで、音のパレットに限りがあるようでは
ピアニストとしてあるところで止まってしまう」との指摘。
その意味で、野島先生的には優勝者の現時点での音楽性の確かさを評価すると同時に、
4、5位の二人に今後の可能性を感じていらしたのだろうなと推測。

◇自分を知るということ

そんなわけで、野島先生のコメントを聞いているうち、
「自分を知る」ということについてなんだかとても考えこんでしまいました。
ちょうどファイナル2日目を聴き終えた時の記事でも、
ピアニストが自分に合う選曲をするということについて考えたと書きましたが、
自分に合ったものを選べる能力、自分ができることとできないことを見極める能力を持つ、
つまり自分を知るということは、とても大切で難しいことだなと。

野島先生が1位のヒョンジュンさんについてたびたび言っていたのが、
「彼女は自分ができること、できないこと、自分が表現したいことをわかっている」
ということ。
「そこにたどり着くまで、試行錯誤しながら自分の道を探ってきた痕跡も感じた。
例えばブラームスのピアノ協奏曲は、
体格の大きな男性ですら技術的に難しい箇所もある作品だが、
彼女の場合、女性特有のしなやかさのようなものを貫き、
ちょっと体の使い方を工夫してブラームスの厚みを壊さないような演奏をしていた」

プログラム選びから、ピアノ選び、体に合ったテクニックなど、
自分に合ったものを的確に判断しなくてはいけない場面って本当にたくさんあります。
音楽への思いが強いほど、そういう客観的な視線って失いがちかもしれないから難しい。
でも同時に、自分が周囲にどう見えるかばかり気にしている表現というのも、
それがわかってしまった瞬間聴く人を興ざめさせてしまうような気がする。
そのバランスもまた、本当に難しいですね。

究極的にいえば、正直に物事に向かっていればなんでもいいのでしょうけれど。
“あのプログラム、合ってなかったよ”と言われても、
“弾きたくて一生懸命勉強して自信をもって弾いたんだけど、
共感してもらえなくて残念だったなー。別にいいけど。”
くらいに本人が思えるならそれでいいのかもしれない。

でもやっぱり、的確に「自分を知る」ことができたら人生だいぶ楽になるだろうな。
そのためには何か考え方の転換が必要なのではないだろうか。
(↑完全に、ピアニストに限らない人生の話に置き換えはじめている)

そんなことを悶々と考えていたところ、
レセプションの会場で一人で立っている野島先生を発見。
もう帰ろうとしているところをわざわざお引きとめして、質問してみました。
「自分を知るためにはどうしたらいいのでしょう。
迷える子羊たちのためにアドバイスを……」(本当は自分が聞きたいだけ)

『そうねえ。まぁ、いろいろ試してみればいいんです。
それで失敗すればいいの。できるだけ失敗したほうがいいんです。
いつも言っているけど、失敗は成功のもとっていうのは、本当ですよ。
それには勇気が必要だけれどね。めげない精神力も必要だし。
やっぱり、そういうのも演奏するうえでは必要ですよね』

ああ先生、失敗する勇気のことをおっしゃるとは。しかもその穏やかな語り口で!
最近ちょうど、精神力ハンパなく強い人について思いを巡らせる機会が続いていたので、
その意味でもなるほどと思いました。
精神力強すぎて失敗してもまったく反省しないというのも
困りものな気がしないでもないですが。
結局は何事もバランスなのか。

と、結局コンクールの本筋からまったく外れたものごとを悟ったところで
この記事を閉じようとしていますが、
実際、コンクールを聴きに来るといつも勝手に人生勉強をしている感があります。
コンクールの間違った楽しみ方をしているような気がしないでもありませんけど。
今回は素敵な課題曲のおかげもあって、本当にいろいろな発見がありました。
先にお伝えしたとおり、優勝者と審査委員長のインタビューなどは
公式関係の媒体で掲載されると思いますので、公開されたらご紹介します。