どうしてピアノが好きなのか


まだ最初なので、この妙なタイトルのサイトを始めた自分が何を考えているのかについて、もう少し書きたいと思います。

そもそも、学生時代はせっせとインドの研究をしていた自分が、なぜクラシック音楽、それもピアノの専門誌で仕事をすることになったのか。
それは話せば長くなるようであり、成り行きの一言でかたづけられるところでもあるのですが、一番大きいのは、やっていることの根本的な心の動きに共通するものがあったからだと思います。

私は幼少期からけっこう長らくピアノをやっていましたが、それはかなりイヤイヤで、あまりに練習しないので母に月謝袋を破かれたこともありました(泣きながら貼り合わせてみると、それは前年の古い月謝袋でしたが。しかも母は本気でまちがえたらしい)。
流行っていたからなんとなく始めることになったピアノであり、演奏会に連れて行ってもらうこともなく、なにかCDを与えられることもなく、よって誰かのピアノ演奏で感動することなどただの一度もないまま、自分の13年間ほどにわたるピアノ人生は幕を閉じました。
その後、大学に入るとピアノに触れることもなくなり、インドのスラムに入り浸ったりして大学院を卒業したあと、ピアノの専門誌で編集の仕事をすることになったわけです。
ピアノやクラシックを聴く喜びに目覚めたのは、ここから。おそっ!

それで、最近つくづく実感するのですが、自分がクラシック音楽をこんなにも聴くようになった理由のひとつは、この音楽やそれに関わる芸術家に触れていると、人間とか人生について思い悩んでいることの解決の糸口が発見できたり、ひらめきが訪れたりすることが、わりとちょいちょいあるからのような気がしています。もちろん純粋に音楽に感動したり、打ちのめされたりしていることもありますが。
そういう発見は、シンプルに演奏を聴いているだけで受け取れることもあるし、インタビューをする中で相手から湧き出した言葉から教えてもらうこともあれば、彼ら、音楽の神に選ばれしヘンタイ(いい意味で)の無意識の動きを観察する中で、勝手に発見することもあります。

そうして人が語る言葉の意味を発見するためには、まわりのいろいろな背景を知っていなくてはいけません。もっと勉強しなくては。そしていろいろなことに気が付ける自分でいなくては。

で、ここでインドが出てくるんですが。
ああやって、自分とは違う価値観、能力を持ち合わせて生きている人たちの言葉を注意深く聞いていると、自分が思い悩むような多くのことがとても小さなことに思えてくるわけです。
その価値観は普遍的なものなのか?否。今自分が悩んでいることは、ところ変わればどうでもいいことなのだ、みたいな。
スカッとしますし、次いで新しいアイデアが浮かんできます。ところ変わろうがどうなろうが、悩むべき問題もときにはあるかもしれませんが、ではそもそも社会や人間の存在とは……みたいな話になってくるので、それはこのあたりでやめておこうと思います。

中でも同じ時代を生きているピアニストにフォーカスしたくなるのはそのためです。まだ見ぬすばらしい演奏に触れる喜びはもちろんですが、その人が誰も知らないおかしな思考回路を持ち合わせているかもしれなくて、そんな話を聞くのが私は大好きなのです。そして当然、その人の音楽はそこから生まれているわけですし。
だから別にコンクールが好きなわけではないんですが、ひとつひとつ見知らぬピアニストの演奏会に通うには限度がありますし、そもそも東京で演奏会を開く前の段階にある人に出会うには、やっぱりコンクールという場に頼るしかない。演奏後、話を聞くチャンスも持ちやすいし(迷惑かもしれないけど)。
というわけで、けっこうおもしろそうな人の集まっているコンクールを現地で取材するのは好きです。

こう考えると、もしかしたら、本当はピアノじゃなくて、なにか別のものでもよかったのかもしれない。
でも、ピアノの音は特別好きなんですよねぇ。それを思えば、月謝袋を破かれながらも13年ピアノを弾いていたことは、無意味ではなかったのかもしれません。
ちなみに、今私がこの仕事をしていることを、私のかつてのピアノの先生は知らないと思います。多分、めちゃくちゃびっくりするだろうな。