第10回「サリエリの嫉妬」


電子ピアノの前に座って、自分に言い聞かせる。
「ここは簡単。難しくない。これまで通りにやれば大丈夫」
何度も呟いていると、まるで新興宗教か、ポジティブ・シンキングの教室のようだ。妻に聞こえただろうか……。

最初から弾いてみるが、いつの間にか意識は問題のパートにいってしまう。そうなると悪循環で、これまで普通に弾けていたところまで間違えてしまう。
そして、問題のパートは相変わらず上手く弾けない。
「あ~、もう!」
思わずイラつく自分に気づいてハッとした。これじゃあ、娘がイライラしている姿と同じじゃないか! 思い起こしてみれば、小学校の頃に習っていたとき、同じような気持ちになっていたような……。いまさらながら、娘の気持ちに気づく……などと分析している場合ではない。練習しなければ。

だめだ、やっぱり弾けない。30分後、僕はうなだれていた。これ以上やっても、上達しないのは目に見えている。
そんな数日を経て、もうレッスンの日だ。一週間って、あっという間に過ぎるなあ。

教室ではドレミ先生が待ち構えていた。先週に引き続き、まだ弾けないことを冒頭に伝える。
「まあ、最初からやってみましょう」
ドレミ先生の明るい声に助けられるが、できないことに変わりはない。
弾き終わると、
「前よりは良くなってるんだけどね~。じゃあ、ここのパートを練習しましょう。私が右手をやるので、左手だけ弾いてみて」
最初はゆっくりと、数回繰り返すうちにドレミ先生の右手のスピードが上がる。食らいつくのが大変だ。
「じゃあ、次は私が左手を弾きますね」
こっちも次第にドレミ先生のスピードが上がる。もはや、鍵盤の位置を目で確認する余裕もない。終わって息を吐くと、
「ほら。片手だけだとスピードが早くても弾けるでしょ」
確かに。多少の間違いはご愛嬌だ。
「きちんと弾こうと右手のスピードが落ちて、それに左手を合わせようとするからリズムが狂うんですよ。普通のスピードに戻せば弾けるようになります」
ドレミ先生は、譜面に☆印とともに、〈左は何があっても止まらない〉と書き込んだ。
「左手が右手をリードするんです。右手は利き手だから、多少のことにはついてくるから。左手は単純なメロディかもしれないけど、そう思ってサボってると、すぐに忘れちゃうから。家では、スピードを元に戻してやってみて。右手が間違えても構わないから」

片手ずつとは言え、さっきのスピードで弾けたと思うと、自信が湧いてくる。これ、弾けるかも。
「じゃあ、いよいよラストのパートに行きましょう」
ドレミ先生がお手本を示してくれる。きたきた。遂に、誰でも知ってる曲のラストですよ。まさか、ここまで来るとはなあ。弾いてもいないのに思わず感慨にふける。ラストもかっこいいなあ。
「これ、かっこいいですね~」
「ね~。モーツァルトですからね~」
モーツァルトですよ、モーツァルト! 40歳すぎてモーツァルト弾けるって凄くないか。アマデウスですよ。そりゃあ、サリエリも嫉妬するよ。
その後、縦の波型マークがアルペジオだと教えてもらう。もう、あまちゃんですよ、キョンキョンですよ。

一人で盛り上がる僕だったが、軽く弾いた時点で時間切れ。次回までに頑張って練習だ。
終わった後に、ドレミ先生が最近手に入れたと嬉しそうに語るスマホ(ふふふ、ドレミ先生、ガラケーだったのか)に、小学校時代の作文を保存したということで読ませてもらう。画像の表示までに時間がかかるところが、まだ慣れない様子を窺わせる。ようやく出てきたのは、子どもながらの可愛らしい文章だが、僕の視線は書いた児童の名前に釘付けだ。
〈高橋ドレミ〉
何~! ドレミって本名だったのか~! 今日までペンネーム(って言うのか?)だと思ってたよ。

ドレミ先生に聞くと、お母さんがつけてくれたとのこと。その名前でピアノの先生って完璧だなあ。〈宇宙〉と書いて〈コスモ〉と読ませたり、〈怜緒〉とかいて〈レオ〉と読ませるような訳分からん名前よりも、よっぽど潔いじゃないか。お母さん、ファンキーというか、やるなあ……。
ドレミ先生は、このエッセイがどこにアップされているか知らなかったので、〈ピアノの惑星〉とスマホに打ち込んで確認してもらう。
「楽しみに読みますね~」
そう言ってもらったが、帰路、ドレミ先生の悪口なんて書いてなかっただろうな、と不安になりつつ、原稿を確認するのだった。

(つづく)

◇レポート執筆者◇
今東昌之
めがねがトレードマークの会社員。
小学校3年から中学2年、インターバルを挟んで、高1から高2までピアノを習うも、
現在はさっぱり弾けなくなってしまったという。
40歳を過ぎたある日、再びピアノを始めようと一念発起。さあ、どうなる!

◇通ってみた音楽教室◇
コロムビア音楽教室
2013年にオープンしたばかり。ご存知のレコード会社日本コロムビアが運営する音楽教室。代々木公園駅近く、白寿ホールのある建物のなかで火曜日から土曜日まで開校。初心者から音大受験生まで、演奏家としても活動する講師たちにマン・ツー・マンで習うことができる。ピアノのほか、ヴァイオリン、チェロ、フルートのクラスがある。

ホームページ http://www.columbiamusicschool.jp/