第3回「ドレミ先生が選んだ曲は?」


日々、最低気温を更新している2月の夜、白寿ホールの前でコロムビアのMさんと待ち合わせた。いよいよ初レッスンだ。渋谷から歩いてみたが、それほど遠くはない。
Mさんのカードキーを使って建物に入り、ドレミ先生の待つ教室のドアを開ける。
「こんばんは~」
あれ? 誰もいない……。少し早く着いたからドレミ先生も休憩中かな。じゃあ、その間にトレイにでも。すると、トイレの前でドレミ先生と顔を合わせた。初対面の挨拶がトイレの前というのは初めてだ。

教室に入り、ドレミ先生が準備をする間、緊張感が高まる。普段の仕事でも、こんなに緊張することはないだろう。
ドレミ先生はいくつか楽譜を用意してくれていた。僕の希望は事前に伝わっているようで、♯や♭が多くなく、誰でも知っている有名な曲。そんな要望を満たして選んでくれたのは「トルコ行進曲」だった。お手本で弾いてくれたが、確かにこれなら誰でも知ってる。これこれ。こういう曲を弾きたかったんだよ。
そのほか、「エリーゼのために」があり、僕のサザンの曲も……という要望に応え、
「〝愛しのエリー〟なんか弾けるとカッコいいから、そのうちにやりましょう。その前に〝エリーゼのために〟がありますけどね」
ドレミ先生、エリーつながりで選ぶユーモアも忘れない。しかし、次の選曲には驚いた。
「日本の童謡をアレンジしたものなんですけど、この中の〝赤とんぼ〟が良いんですよ!」
は? 赤とんぼ? うーむ、日本の童謡なんて興味ないんですけど。そんな僕の心を読んだかのように、ドレミ先生が弾き始める。
何だ、これは? 両手クロスしてるんですけど! 出だしこそ、誰もが知ってる〝赤とんぼ〟だが、途中からテンポが速くなり、しかも明るい。15で嫁に行った姉やはどうした? 便りも絶え果てたんじゃないのか? くーっ、〝赤とんぼ〟かっこいいなあ。これは、ぜひ、弾きたい!
「でも、とりあえずは〝トルコ行進曲〟ですね」

そして、ピアノの前に座る。電子じゃないピアノは久しぶりなので、ますます緊張する。背後に、Mさんの気配を感じるので、緊張感はさらに倍増だ。ここを紹介してくれたKさんが仕事の都合でいないことが、不幸中の幸いだと思うことにする。しかし、譜面で4ページなんて、本当に弾けるのか?
「結構長く感じますが、良いお知らせがあります。このフレーズがありますね。これと同じフレーズが、こっちにも出て来ます」
そう言って、ドレミ先生は鉛筆でお花マークを書き込んでくれる。可愛いじゃないか。
「また、こっちのフレーズは、こっちにもあります」
今度は、星マーク。そして、最後の繰り返しフレーズにはハートマークだ。
「こうしてみると、この3つのフレーズを覚えると、実質4ページもないでしょ」
本当だ。少し、弾ける気がしてきた。
「まずは、左手からです」
左手? 右手からじゃないのか。
「利き手が右の人が多いので、みんな得意な右から弾き始めますが、左から覚えた方が絶対に早く弾けるようになります」
そうだったのか。確かにメロディを弾きたいから、右から始めちゃうよなあ。
「左手の最初の方、楽譜読めますか?」
ドレミ先生、侮っちゃいけない。こっちはバイエルからしっかりやってるんだ。でも、「多分、大丈夫です」と言いつつ、軽く弾いてみる。
「あ、ミソじゃなくて、ラドですね」
げ、読めてない……。読めますなんて、自信持って言わなくてよかった。その後は、つまずきながらも何とか弾ける(と言っていいのか?)ようになり、僕が左手、ドレミ先生が右手、また、その逆で練習しつつ、両手で弾いてみる。わかりにくい箇所は、ドレミ先生が鉛筆で書きこんでくれる。スタッカートなんて言葉、久しぶりに聞いたなあ。

それからは繰り返し、冒頭を弾き続けるのだが、これが最高におもしろい。同じ箇所の繰り返しでも、知っている曲だから、完成に少しずつ近づいているのではと感じるし、何回やっても上手く弾けないところは、ドレミ先生が絶妙なアドバイスをして、譜面に書き込んでくれる。これが本当の伴走=伴奏だ。最初こそ、弾けない緊張で汗までかいていたが、そんなことは関係ない。弾けないから、僕はここにいるのだ。そう開き直ると、どんどん弾きたくなってくる。ピアノ、こんなに楽しかったっけ? ドレミ先生、次は次は?
「じゃあ、来週までに、ここまで練習してきてくださいね」
えっ? 時計を見ると、すでに45分が経過している。
「本当に弾けるようになったらいいなあ」
と言うと、ドレミ先生は「必ず弾けるようになります」と自信を持って言ってくれる。Mさんも「この時間でここまで弾けるんだから、早いですよ」と、こっちを持ち上げることを忘れない。嘘だとわかってるけど、もっと褒めてって感じだ。もはや、気分は小学生そのもの。

最寄駅まで歩いている最中も、「おもしろかった」という言葉しか出てこない。小学校の時に、こうした曲をやらせてくれれば、ピアノをもっと好きになってたのになあ。
ドレミ先生と反対方面の電車に乗りつつも、早く家で練習したくてたまらない。結局、夜中の12時まで練習して入浴。その後も少し弾いてから、後ろ髪を引かれる思いでベッドに入った。
ピアノ、楽しいなあ。来週のレッスンが楽しみでたまらない。ドレミ先生、待ってろよ~。きっちり弾けるようになって行くからな~。

(つづく)

◇レポート執筆者◇
今東昌之
めがねがトレードマークの会社員。
小学校3年から中学2年、インターバルを挟んで、高1から高2までピアノを習うも、
現在はさっぱり弾けなくなってしまったという。
40歳を過ぎたある日、再びピアノを始めようと一念発起。さあ、どうなる!