2014年のお正月気分も抜けきらないころ、Kさんからメールが入った。
『例のピアノの件、今月先方と打ち合わせをするので、顔出せない?』
僕も会社勤めをしているにもかかわらず、17時にコロムビアでの待ち合わせを指定してくるあたり、彼女の本気さを感じる。行ってしまう僕も悪いのだが……。
当日、適当な口実で会社を抜け出した僕は、虎の門の日本コロムビアに向かった。えらい急な坂道に苦労しつつ正面玄関に着くと、そこにはチラホラ女の子の姿があった。これが俗にいう出待ちか。一体誰の? と思いつつ、Kさんの待つロビーに。そこには、これでもかとばかりに有名演歌歌手Hのポスターが貼ってある。Hの出待ちか!?
打ち合わせ室に通されたが、その時まで、僕は簡単な打ち合わせだと思い込んでいた。しかし、やってきたのは部長のOさんをはじめ、計4人だ。おいおい、そんな真剣な打ち合わせだったのか。簡単な自己紹介をしつつ、これまでのピアノの経験を語る。もちろん、本当は誰もが知っている曲を弾きたいことなどについてもしっかりと伝えることは忘れない。
しばらくすると、コロムビア音楽教室のチラシを渡され、さりげなく目を通していく。授業料などはもちろんだが、どういう先生に教わるのかに、自然と興味は集中する。チラシの裏面を見てびっくりした。火曜日から土曜日まで5人の先生が顔写真入りで紹介されているのだが、途轍もなく綺麗な先生がこっちを向いて笑っている。楽器は? この人は何を教えているんだ? すぐに担当を確認する。くー、フルートか。
そんな僕の心の内を読んだわけでもないだろうが、話題は、40歳を越えて、改めて楽器を始める場合のモチベーションの保ち方に移っていく。
「やっぱり、先生にもよりますよね~」
と、さりげなく言ってみると、すぐにOさんが反応した。
「それはあります。うちの場合は、しっかりとした実績のある先生方ばかりですが、相性というのもありますから」
「いや、相性はどうでも……。このフルートの先生に教わりたいですね」
と冗談っぽく(本当は真剣)言ってみたら、隣のKさんが食いついた。
「そういうと思った!」
読まれたか。
「いや、でも、ここは重要ですよ」
Oさんがフォローに回ってくれる。思わぬ援護射撃だ。
「どの先生に習うかで、練習態度も変わってくると思いますし。でも、この先生はフルートですから。いっそのこと、ピアノじゃなく、フルートにしますか」
いいのか! どこまで本気で言っているのかわからないが、心は大きく揺れた。
しかし、当初の目的を忘れるわけにはいかない。綺麗な先生に教わることが目的なのではない。暗闇でのピアノの演奏だ。停電の時に、格好よく弾きたいだけなのだ。
「ピアノにします。フルートなんて持ってないし、家には電子ピアノもあるから練習もできるし。新しい楽器を一から始めるより、やっぱりピアノを弾きたいから。あと、レッスンは土日より平日がいいです」
「そうですか。じゃあ、ピアノにしましょう。木曜日のドレミ先生もおもしろい先生ですよ」
おもしろいという言葉がひっかかるが、名前がドレミって……。
「もし、弾きたい曲があったら言ってください。ドレミ先生は簡単に弾けるようにアレンジを加えることもできますから」
そんなことができるのか。だったら、そんなに有難いことはない。
ピアノのレッスンは木曜か土曜の2日。ドレミ先生は木曜担当なので、自然と僕のレッスン日が決まった。そこからスムーズに話は進み、最後に希望する曲を聞かれた。だが、そもそも曲名がわからないものが多いのだから答えようがない。そこで、こんな希望を出してみた。
(1)誰もが知ってる有名な曲
(2) ♯や♭が3つ以上ない
(3) クラシックでなくても、僕の大好きなサザンの曲のアレンジなんかもあり
改めてピアノをやる人間にとって(2)は特に重要だ。数十年ぶりに始めようとする時に、♭の数が多かったら、それだけでげんなりしてしまう。もし、本当にアレンジしてくれて、簡単に弾けるのだったら、本来の楽譜通りじゃなくたって、まったく問題はない。こちらは、プロになりたいわけじゃなくて、簡単に弾きたいだけなのだから。
僕の場合は、この原稿を書くことを含めてのモニターということで、通常とは異なり、レッスンの時間帯は変動する。レッスンは、30分、45分、60分のコースがあるが、人気なのは45分コースらしい。30分だと、最初の授業は自己紹介などで終わってしまうので、物足りなく感じるという。そこで、僕も45分を選択した。
月謝は中学生以上で17,500円。小学校時代に個人レッスンを受けていたときは、30,000円近く払っていたと母に聞いたことがあるから、これはかなりお得なのでは?
別件の打ち合わせがあるというKさんとはその場で別れ、コロムビアを後にした。
≪本当に弾けるようになるのかな?≫
そんな、ちょっと嬉しい気持ちが芽生えてきて、目の前の急な坂道も帰りは気にならなかった。
(つづく)
◇レポート執筆者◇
今東昌之
めがねがトレードマークの会社員。
小学校3年から中学2年、インターバルを挟んで、高1から高2までピアノを習うも、
現在はさっぱり弾けなくなってしまったという。
40歳を過ぎたある日、再びピアノを始めようと一念発起。さあ、どうなる!