審査員インタビューはみだし編

こちらでは、ぶらあぼONLINEではあまりに長すぎになってしまうため載せきれなかった審査員の先生方のインタビューのはみ出し編を、一挙にご紹介します。
本編あってのはみだし編ですので、あわせてお読みください!

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海老彰子さん

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―入賞はできなかったけれど印象に残っているコンテスタントはいますか?

ネーリンクさん、アレクセーヴィチさんは、いいと思いました。あと、ヴィエルチンスキさんも、ショパンのスタイルを持っていらっしゃいました。あとは角野さん。アルゲリッチさんがブラジルで聴いていらしたようで、好きだとおっしゃっていました。才能がすごくあると。

―ところで、事前のインタビューでは審査員の先生方はみなさん、ショパンのスタイルにおいては、大きな音で弾く必要はない、速く弾くことは大切ではないとおっしゃっていましたが、今回はわりと豊かな音で華やかな演奏も評価されていた印象でした。何か、新しい流れがきているということなのでしょうか。

大きな音で弾くということについては、実際、もし大きな音で弾きすぎなければ通っていた可能性もあるかなというコンテスタントもいらしたと私は思います。その方などは、弾き始めはとてもバランスの取れたいい演奏だったのですけれど。
でも、若い頃は、これだけやらないと伝わらないのでは、と思ってしまいがちなのですよね。私自身もそうでしたからわかりますけれど。そこをなんとか耳で聴いて、考えなくてはいけません。指で弾くよりも、耳で聴くことが大切です。結局重要なのは、聴き手に感動を与えられるかどうかです。

—自分のまわりの音と、やっていることに入り込みすぎてしまうと、聴けているつもりで聴けなくなってしまうということでしょうか。

そうそうそう。逆に、ちゃんと聴けている人はすぐにわかります。音が違いますからね。……でも、言うのは簡単ですが、やるのは大変なんですよね。

—それとピアノについてですが、今回は、上位入賞者たちがいろいろなメーカーのピアノを弾いていましたね。初めはスタインウェイがとても多くて。

いい音でしたね、スタインウェイ。すごくよかった。
シゲルカワイも、ガジェヴさんがいい音を出してくれていました。
イタリアのアルメリーニさんはファツィオリ、ガルシア・ガルシアさんもファツィオリを弾いていましたけれど、深みもあるまた全然違った種類の音を出していて。あのファツィオリからそういう音が出てくるのを聴いて、すごいなと思いましたね。

—あとは、ファイナリストに17歳が3人いらっしゃいましたが、結果的に上位入賞することが難しかったのは、成熟度も求められていたからでしょうか…年齢は関係ないかもしれませんが。

そうですね、年齢は関係ありませんけれど。
ただ、聴こえてくる音楽がよく練られているかどうかは、音を聴けばわかります。音が彫刻されているか、しっかり何かが刻み込まれているか。これはやっぱり時間がかかることなんですね。
コンクールというものは、みんな自分のために出るものですから、結果以上に、この機会を使って自分がいかに伸びていくかを大切にしたほうがいいと思います。アーティストとしての人生は長いですからね。実際、一番になったら一番になったで大変ですよ。すごい責任のあることですから。

—ブルースさんは、それを越えてゆけそうなピアニストだった、ということですね。

それを願いますよね。

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ピオトル・パレチニさん

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—コンクールが始まる前、パレチニ先生にもショパンらしい演奏とは何かということについてインタビューをさせていただきました。今回のコンクールでも、審査員のマジョリティが認めるショパニストが選ばれたということですね。

そうです、マジョリティの意見です。私の意見では、1位は該当なしでもいいのではないかと思いましたが、そうはできないルールなので。
今回の結果には、聴衆のリアクションも影響があったと思います。優勝者はその後、メディアに出て、ある意味、商品として世の中に出て行くのですから、人々がこの先何年もコンサートに行きたいとならなくてはいけない。これは審査員も重要だと考える点です。
いわばコンクールが終わって、入賞者たちにとっては、明日からもっと難しい新たなコンクールがはじまるようなものです。私もそれを50年生き抜いて今があるのでわかりますが、コンクールから当面は、自分が疲れていようが調子が悪かろうが、聴衆はみんないつも最高のレベルを期待してくる。とても厳しいのです。
入賞者たちは、審査員の決断が正しかったと、全てのコンサートで示さないといけません。なにしろ、他にも多くの若いピアニストたちがこのチャンスにかけていたなかで選ばれたのですから。

—そういうタフさも考慮に入れての結果だったのですね。

そうですね。
17人の審査員は、ショパンのスペシャリストで、単に優れたピアニストや教授というだけではななく、ショパンに人生を注いだ人のはずです。人よりもショパンについて多くのことを知っているはずですから、決断を信じなくてはいけません。私も、私の意見がいつも正しいとは限らないと思うようにしています。

—いろいろなお考えの審査員がいるほうが、良い決断につながるのでしょうか。

みんながそれぞれの美学を持つことで、ショパンの演奏にいろいろな可能性が出るのは良いことだと思います。もちろん、ショパンに反していないことは重要ですが。
ショパンコンクールはショパンだけしか演奏しない、いわばモノグラフィックな場ですから、優れたピアニストであるだけでなく、ショパンをちゃんと感じ、ショパンのスタイル、温度で演奏をしないといけない。ベートーヴェンやラフマニノフのように弾いてはいけない。ヴィルトゥオジティを見せつける必要もないし、アクセッシヴに鍵盤に力をかける必要もない。
ショパンはそういうものではなかった。だからこそショパンは世界で受け入れられ、同時に難しいとされてきたんですけどね…。

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ダン・タイ・ソンさん

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—あなたのもとでたくさんのアジアの優れたピアニストが育成され、前回に続き今回も、ショパンコンクールで入賞を果たしました。ご自身で、こうしたアジア系のピアニストの活躍を支えているという手応えはありますか?

アジア人といっても、ある人はアジアで生まれ育っているし、ある人は海外で生まれ育っていますが。
今回のコンクールには、私の生徒が6人参加しています。そのうち2次に進んだのは4人ですが、繊細だったり情熱的だったり、それぞれがまったく別のタイプです。私はむしろ、これがとてもおもしろいと思っています。最近は、自分と同じタイプの演奏では、私を満足させるのが難しいところもある。一方で、自分のイマジネーションとまった違う演奏を聴かせてくれると、突然、何かを発見したかのような気持ちになり、喜びを感じるんですね。

—アジアのピアニストの多くは、体格などが欧米の方々と違うことも多いですね。音の作り方の面で、どうしても違うなと思うことはありますか。

そうですね、音の作り方だけでなく、むしろパーソナリティの違いの方が大きいかもしれません。ヨーロッパのピアニストからは、やはりより強いパーソナリティが感じられます。みなさんわかっていることだと思いますが、やはり、ライフスタイルの影響でしょう。
私も日本に4年住んだことがありますが、社会が個性を伸ばしていくということを積極的に支援しない傾向があると思います。これは、中国やベトナムも同じです。周りのやり方にならったほうがいいという感覚が、生活の中で形成されてしまうのです。でも、西洋は違います。自由に、自分のしたいようにする人が多い。
こうした違いが、アートにも影響してしまいます。アジアで育つと、心を開いたり自分のイマジネーションを広げていく癖がつきにくいのです。でもその意味で、アジア人でも海外で生まれ育った人はまた別ですね。そこには可能性があるでしょう。例えばシャオユーはパリで生まれています。それはかなり大きな違いでしょうね。

—ではあなたはご自分のアジア人の生徒たちに、心を開き、変わるように言っているのですね。

もちろんです。ただ、シャオユーについては、良いバランスをとらせるということが重要でした。彼の本質を大切に伸ばすと同時に、ショパンのスタイルを忘れさせないようにしました。
ポロネーズやマズルカのタイミング、リズム。加えて音量の問題。ショパンのフォルテと、ブラームス、ベートーヴェン、プロコフィエフのフォルテは違うということを理解させたうえで、バランスを保ちながら、自由な音楽をさせる。コンクールでは、ショパンのスタイルをはみ出してしまえば、落とされてしまいますから。
私はまず、生徒が最初に持ってきた演奏を聴いて、そのアイデアがやりすぎかどうかを話し合います。でも、こう演奏しないといけないということは絶対に言いません。そこから、説得力のある表現を求めていきます。
ただ今回私は、たくさんの生徒をこのコンクールに連れてきてしまいました…そのせいで落とされなくてはならなかった子がいたかもしれない。もしかしたらこれは今後、私自身が考えなくてはいけないことなのかもしれません。あまりにもたくさんの生徒を連れて来ると、残念な結果になるという。でもこのコンクールは、あとで採点表が発表されますから、いいですね。
ショパンコンクールで評価される演奏には、二つのタイプがあります。まずひとつは、ショパンに対して特別な態度で臨み、深くショパンとつながっているショパニストであること。もうひとつは、それほどショパンにスペシャライズしていないかもしれないけど、一般的に大変ハイクラスなピアニストであるということ。
過去の優勝者を見ても、例えばアルゲリッチはショパンのスペシャリストだと思いますが、ポリーニやオールソンは少しタイプが違います。別のカテゴリーなんですよね。

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クシシュトフ・ヤブウォンスキさん

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—今回の日本人入賞者の反田さんと小林さんの演奏について、一言ずつご感想をいただけませんか。

日本人がファイナリストに残り、入賞したことはものすごく嬉しいです。ただ私としては、彼ら両方の音楽に、より求めるところはありました。
反田さんは、私がつけた順位とは違いましたけれど、入賞にふさわしいとは思いました。良いピアニストです。私の友人が、彼の演奏は、日本とポーランドをはじめ、国際的なフレーバーを全てのフレーズに加えることで、すばらしいエンターテイメントを創り上げていると言っていましたが、実際それがうまくいって、美しい演奏になっているのです。彼はプロフェッショナルでした。あと、2次はよかったですね。
小林さんの演奏に感じたのは、クリエイティヴィティがどこまで許されるのかということです。色彩を感じる個性を持った演奏で、すばらしいパッションもありました。

—では、ショパンの作品を正しく解釈して演奏するにはどうしたらいいのでしょうか。

私が思うに、ショパンにおいて大切な一つのことは、シンプルであるということです。シンプルであるということは、素朴であるということとも違います。人と違う演奏をするためにシンプルさを求めるのも間違いです。
音楽からこれまでにない何かを見つけようというアプローチは、何もかも捻じ曲げてしまう。それがどれだけ聴衆に関心を抱かせ、納得させようとも、真実を歪めたものでしかない。とにかく、ただひたすらに美を求めて演奏すればいいのです。それが成功の鍵です。
今の若いピアニストを見ていると、事前にYoutubeなどで何百回でも演奏を聴くことができるので、ちゃんとテクストを読む前から解釈をしようとうする傾向にあると思います。たくさんの録音があるなか、そのどれに従うべきかもわからずにそうしてしまう。大ピアニストとされる人ですら、時には楽譜に基づいて弾いていないこともあります。巨匠がこう弾いていたからということは、あなたがそのように弾く理由にはならないのです。
天才作曲家たちはとても明瞭に作品を書いています。そこに書かれているのはpなのか、スラーはどこで終わっているのか、アクセントが付いているけれどそれは何を意味しているのか。考えなくてはいけません。
例えばあなたが気に入った絵画を買ってきて家に飾ったら、毎日それを見て、何年経ってもすばらしいと思えるでしょう。ある日、ちょっと変えてみよう、なんだかグレイでつまらないから色を加えてみよう、などということはしませんよね。それをしたらもうそれは別の作品で、元の美しさは壊されてしまっています。

—ショパンの理解について新しい時代が来たのかな、などとも思ったのですが。新しいタームとか、新しいスタイルとか…。

ショパンの新しいスタイルなんていうものはありませんよ。それは単なるディレッタンティズムです。
今、このコンクールがショパンの音楽の姿を歪める方に向かう扉を開けてしまったとして、もし今後もその方向に突き進んで、誰も止めることがなければ、ショパンコンクールは終わりだと思います。その先はショパンコンクールと呼ばれるべきではありません。最もクリエイティブで才能のある個性のためのコンクール、とすべきですね。

ファツィオリ調律師さんインタビュー(ショパンコンクールのピアノ)

最後にご紹介するのは、ファツィオリのお話。

ファツィオリは1981年創業のイタリアのピアノメーカー。今回の4社の中ではもっとも若く、ショパンコンクールの舞台に初めてピアノを出したのは、2010年のことでした。しかしこのときいきなり、ファツィオリを弾いたダニール・トリフォノフが第3位に入賞、ピアノ好きの間ではけっこうな話題となりました。

今回は、1次予選で87人中8人がファツィオリを選択。そのうち3人がファイナルに進出、しかも、アルメリーニさんが5位、ガルシア・ガルシアさんが3位、そしてブルースさんが優勝するという、輝かしい結果となりました。
本番のピアノでリハーサルができないコンクールという場では、みんな、できるだけ弾き慣れたメーカーのピアノを選びがちです。その意味で、イタリア人のアルメリーニさん、ファツィオリには慣れていたというガルシアさんは、ファツィオリを選択したのもわかります。
しかし優勝したブルースさんは、「コンクールでファツィオリを弾くのは初めてだったからリスキーだった」というではありませんか。でも結果的に、ご本人のキャラクターとピアノのキャラクターがマッチして、美点を際立たせていたように思います。
ブルースさんご本人は、「完全に心地いいものばかりじゃなく、新しいものを受け入れていくということが好きなのかも。そのほうがおもしろいでしょ」とおっしゃっていたのも印象的でしたけれど。さわやかー。(そのコメントは、こちらの記事に)

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さて、今回そんなピアノの音作りを担当したのは、ベルギー人調律師のオルトウィン・モローさん。
他のメーカーはチームで来ていたり、アシスタントがいたりしましたが、彼は基本、たった一人で調律の作業をしていました。そしてアーティストのケアは、イタリアからのスタッフや、途中からはファツィオリ・ジャパンのアレック・ワイル社長が担っていた形です。
全ての結果が出たあと、ワルシャワでのガラコンサートの期間中にお話を伺いました。

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(しずかーな声色でお話しするモローさん。でもすごく嬉しそうでした)

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—すばらしい結果、おめでとうございます。

ありがとうございます。これが初めてのコンクール調律の経験だったので…。

—えっ、そうなんですか?

そう、それが世界で一番大きいコンクールだったんですよ。はは。

—では作業をしながら、コンサートとは違う特別な状況でどうしたらいいかを探っていった感じなのですね。

そうなんですよ。しかも私がこのピアノを初めて触ったのは、セレクションが始まる3日前でした。ステージ上で与えられる時間は1日6、7時間ということで、すぐに作業を始め、この音響の中でどうしていったらいいかを確かめていきました。できるだけイーヴンで、色彩感があって、ダイナミックでボリュームがあり、耐久性のあるピアノを目指しながら、細かい部分を整えていきました。
コンテスタントによるピアノのセレクションを見るのは、とても興味深かったです。他のメーカーのピアノを聴いて、状況をまた理解して、毎日ピアノを改善していきました。
はじめにアクションができるだけスムーズに動くようにレギュレーションの作業をして、それからとても重要なヴォイシングの作業をしていきました。コンチェルトの時には、オーケストラの中でコントラストが出て際立つように、少しトーンとヴォイシングを変えましたが、これはうまくいったと思います。

—それは、ピアニストからリクエストされたとかではなく?

それは私の20年の経験から判断したことです。これまでたくさんのコンサートホールで調律をし、ピアニストと話をしてきた経験を総括した形です。もちろんピアニストから何かリクエストがあれば調整をしましたが、みなさんピアノを気に入ってくださっていたので特別なことは言われませんでしたね。
あと、YouTubeのライヴチャットの意見も参考にしましたよ。

—えっ、本当ですか!

もちろんですよ、ファツィオリの音についての一般的な意見がどういうものなのか知りたかったから。なんでそんなに驚くの(笑)。

—いやぁ(笑)、インターネットの音は、ホールの響きとは別ものなのではいかなと思って…。

もちろんインターネットで聴く音は全く違います。ホールで聴くほうが、色彩がたくさん感じられますし。でも、聴いた人の一般的な印象がどんなものかというのは、一つの大切な情報だと思って。例えば、低音の音量が大きすぎるというコメントがものすごくたくさんあったら、それは何かを意味していると思うのです。

—全ての情報を得ようとしていたんですね。

その通りです、それって重要でしょ(笑)。ピアノの音については、今、このホールに合うべストな状態です。この会場の、特に審査員席での響きを考えて音を作っていきました。コンテスタントの演奏を聴く時は、必ず審査員席の近くに座るようにしました。
でも昨日はガラコンサートのため、ピアノがオペラハウスにもっていかれてしまったから、とても心配していました。あちらの会場のために準備したピアノではありませんから…昨日の音は、私としては全然納得していないから、あんまりハッピーじゃないけど、まあ予想の範囲内ですね。

 —他のメーカーの調律師さんはみんな早い段階から使用ピアノの準備にかかわっていたなか、あなただけ突然ここに連れてこられて、さあこのピアノでどうぞって言われていた状況だったんですね。ある意味、一番不利な状況で臨み、それを弾いた方が優勝したんだから、すごいですね。

そうそう、その通りですよ(笑)。最初は不安でした。そもそもコンクールの調律を依頼されたのも2、3ヶ月前で。コンクールの前にイタリアの工房でピアノを準備したかったけれど、私、この夏は忙しかったからそれすらできなくて。でも、なんとかなりましたね。
しかも、これってファツィオリにとっては歴史的な快挙だよなぁと思って。

—そうですよ!

ねえ。だから、よかったなと思いました。

—そもそもモローさんは、ファツィオリの調律師さんなのですか?

私は独立した調律師です。今回はファツィオリ社から頼まれたんですよ。
4年ほど前、ベルギーに新しくファツィオリのディーラーができて、はじめは彼らからピアノのメンテナンスを依頼されました。それで1週間、イタリアのファツイォリの工房にトレーニングにいったところ、現地の技術者ととても仲良くなって、ファツィオリのピアノもすごく気に入ったので、1年間はイタリアとベルギーを行き来しながら、ハーフタイムでファツィオリの工房で仕事をしたんです。ファツィオリのピアノの扱いは、このときに勉強しました。それ以来の付き合いで、今回も依頼された形です。

—今回のファツィオリのピアノのキャラクターは?

もともといい楽器でした。すごくパワーがあるわけではないけれど、色彩感が豊かで、磨かれた音がしました。そのため、それを保ちながら、このホールに対応できるパワーを持たせるよう、ピアノにエネルギーを与えていきました。

—ショパンを演奏するための楽器だということで意識したことはありますか?

磨かれた色を持ち、ダイナミクスが十分で、透き通っていること。クリアでブライトだけれど、過剰にそちらに持って行きすぎてはいけないということも心に留めていました。暗い音や閉じた音はショパンにはあまり合わないと思い、オープンでワイドな音を求めていきました。

—ショパンを演奏するには、ピアニシモの音の質、歌うニュアンスがとても重要だと思いますが、どうやってそれを作っていきましたか?

そうですね、あと色彩も必要ですね。そのために注意深く聴いていたのは、ピアニストたちが左ペダルを使ったときの音です。これについては、直接ピアニストたちにも使った感想を聞いていきました。みなさんそれぞれの意見がありましたが、気に入ってくださっていました。ソフト過ぎず、明るすぎず、踏んだ時の効果も十分にあり、ちょうど、いわゆるスウィートスポットに入っていたようで、よかったです。

—では最後に。良い調律師に求められるポテンシャルとは、なんだと思いますか?

色彩とダイナミクスに対しての、高い感受性が求められると思います。チューニングとレギュレーションができても、ヴォイシングがうまくできなければ、良いピアノにはなりません。
あとは経験ですね。これは確実に言えることだと思います。

カワイ調律師さんインタビュー(ショパンコンクールのピアノ)

続いては、カワイのお話です。
ショパンコンクールで使用されたのは、コンサートグランドのシゲルカワイSK-EX
実は今回、ピアノは事前に選考会があったそうで、前回、前々回で優勝しているスタインウェイとヤマハは選考会免除、他のメーカーはこれをパスしないとピアノを出すことができないということだったらしい。これに3社が名乗りをあげ、結果的に、ファツィオリ、カワイの2社が、コンクールにピアノを出せることになったそうです。
(このお話を聞き、もし自分がカワイの人だったら、急にそんなこと言われても1985年から出し続けてきたのになんで!?ってびっくりするわ…と思いましたけど)

1次予選でカワイを選んだのは、87人中6人でしたが、その半数の3人がファイナルに進出。そしてブイさん第6位、ガジェヴさん第2位という結果となりました。
カワイさんは、それぞれすばらしい腕を持つ調律師さんがチームでいらしていて、コンクールのピアノ調律へのサポート、練習室のピアノの調律はもちろん、アーティストサービスのようなピアニストへのケアも皆さんで手分けして担当されている形でした。

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(左から、名ピアニストのマブダチとして知られる山本さん、ベテラン村上さん、大久保さん、そして若手のホープ蔵田さん)

今回は中でも、メインチューナーを務めていた大久保英質さんにお話を伺いました。
実は大久保さんは、2019年のチャイコフスキーコンクールで、優勝したカントロフさんが予選のときに選んでいたシゲルカワイの調律を担当されていました(その時の大久保さんのインタビューはこちら)。
カントロフさん曰く、普段ぜんぜん弾いたことがなかったというのに、直感でシゲルカワイを選び、結果的にソロのステージではこの楽器がすごく助けてくれた、とのこと。ファイナルではスタインウェイにチェンジしていましたが、それでもやっぱり私にとってのカントロフさんとのファーストコンタクトはシゲルカワイで鳴らすあの魔性サウンドだったもので、いつかまたシゲル弾いてくれないかなぁと思ったり。

というわけでショパンコンクールにお話を戻しまして、コンクール期間中に行なった大久保さんのインタビューです。

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(ファイナル結果発表直後の大久保さん。うれしそう!)

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—今回のシゲルカワイのピアノの特徴はどのようなものですか?どんなことを意識して音作りをされたのでしょう?

日々ピアノの状態が変わり、毎日それをアジャストしているので、とらえ方はみなさんそれぞれだと思いますが、こちらの意図としては、まずはこのホールに合う柔らかい音、同時に、ショパンに合うであろうキラキラする高音を意識していました。あとは、美しい弱音、伸びやかな歌う音ですね。ゆらぎというか、歌う抑揚というか。…と、いろいろ言いましたが(笑)、目指しているのがそういう音ということです。今回は、ある程度そこに近づけたかなと。もちろん100%満足できることは、基本的にはありませんけれど。
ただ、ショパンを弾くうえで求める音というのは人によって違うところもあるので、どちらかというと、このホールになるべく合う音を目指しました。

—ワルシャワフィルハーモニーホールの響きの難しさや、音作りのポイントは?

これまで先輩たちと一緒にコンクールのピアノの準備をしてきた経験から、ここのホールは、濁った音、汚い音がすごく目立つので、そこにはすごく気を遣ってピアノを仕上げました。
ホールによっては残響に包まれてわかりにくくなるところもあるのですが、このホールのとくに審査員席のあたりには、屋根の角度的にも直接音が届き、それに加えて跳ね返ってくる音が届く状態なので、良いところも悪いところも全部がクリアに聴こえます。

—うっかりピアニストが汚い音を出してしまわずにすむように、ピアノでサポートする、みたいな。

そうですね。もちろん、音楽としてジャリっとした音を求めるときもあるかもしれませんが、これはショパンを弾くコンクールなので、なるべくショパンに合う美しい音を心がけました。
ワルシャワフィルハーモニーホールは、ステージへの音の返しが少なくて、弾いている本人からするとフワッと柔らかく聴こえがちです。でも実際、審査員席には音がまっすぐ飛んでいきます。会場に届いている音をどれだけ把握しているかは、演奏者もですが、技術者にとってもとても大事で、そこを間違えると大変なことになります。

—今回のシゲルカワイについてはよく、あたたかい音が魅力だという声を聞き、個性的な良いピアニストが選んでいましたね。ただ特徴のあるピアノだと、ある傾向の人からは選ばれるけれど、そうでない人からは選ばれにくくなるのではないかとも思います。コンクールだと、まずはセレクションで出場者から選ばれないといけない問題があると思いますが、そこはある程度割り切るしかないのでしょうか?

それはまさにものすごく考えてきた問題です。
今回カワイを選んでくれたピアニストに共通していたのは、ピアニシモを大切に弾いている方だということです。パワーで鳴らすよりは、弱音の中に何かを求めている、というか。
もちろんダイナミックレンジは広い方が良いので、フォルティシモも出るようにしていますが、実際このピアノは、特に弱音にこだわるピアニストを念頭に作り込んでいったところがあります。
コンクールでは鳴りや音量を求めるほうに向かいがちですが、それはやりたくなかったというか…自分が本当にいいと感じるピアノを出したいと思いました。その意味ではチャレンジでしたね。実際にこのピアノの特徴を理解したピアニストが選んでくれるかどうかは、わかりませんから。

—結果的には、二人のピアニストが入賞されました。お気持ちはいかがでしょう?

表現するのが難しいです。コンクールはメーカーのためのものではないとはいえ、良い結果がでることは嬉しいのですが、一方で、イ・ヒョクさんなど、あれほどすばらしい演奏をしたのに入賞を果たせなかったピアニストの気持ちを思うと、全面的に喜ぶことはできません。
コンクールの仕事をしていると、それは毎ステージ起きるわけですが、やっぱりどうしても通れなかった方のほうのことを考えてしまって。本当に不思議なんだけれど、メーカーとして良い結果でも、心の底から喜べないのです。

—このコンクールを経験して、調律師として改めて気づいたこと、得たものはありますか?

やはり難しいと思ったのは、ピアノって生き物のようで、毎日本当に状態が変わるということです。
世界有数のコンクールの場で、極限までピアノを調整していますけれど、ちょっとした湿度や誰かが演奏した影響で、すぐに状態が変わってしまいます。そんな中でもべストな状態を保つことは、やっぱり本当に難しかったです。とくにコンクール中のピアニストは神経が張り詰めているので、少しの変化にも気がつきます。
ピアノの状態が日に日に変わっていくことを、調律師が敏感に感じ取っていないと、あるとき、取り返しがつかないほど大きな変化になっていて、場合によっては、ピアニストが楽器を変えたいということになってしまいます。そう言われてしまったときには、もう手遅れですから…。

—初めてショパンコンクールのメインチューナーを担当されて、いかがでしたか?

やっぱりプレッシャーはものすごかったです。もちろんピアニストのほうが孤独だし、ずっと大変なんですけれど…。セレクションで選ばれるかどうか、結果がどうなるかというプレッシャーもありますし、ピアニストを満足させられなくてはという気持ちもあります。また世界中に配信されるので、聴いている方にとってもいいピアノでないといけません。
でも、ショパンコンクールのメインチューナーを務めるということは夢だったので、本当に光栄でした。

ヤマハさんインタビュー(ショパンコンクールのピアノ)

今回ご紹介するのは、ヤマハの調律師&アーティストサービス担当のみなさん。
今回ヤマハCFXは、最初の段階で2番目に多い9名が選択。なかでも牛田智大さんやゲオルギス・オソキンスさんなど、コンクール前から人気だった面々が選んだということで、注目されていたかと思います。

チーム・ヤマハのみなさんには、ワルシャワでファイナルの期間中にお話を伺いました。

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(メインチューナーの前田さん、アーティストサービスの田所さん、松下さん)

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—今回は、9名のピアニストがヤマハを選んでいました。

田所さん コンクールというとメーカーの戦いに見えてしまうかもしれませんが、始まってしまえばそこは関係なく、とにかく最高の状態のピアノを用意できるよう目指すだけです。今回、ファイナルまでサポートができなかったのは残念ですが、私たちなどが想像できないほどに一番残念に思っていらっしゃるのはピアニストたちご自身ですから…。

—今回のピアノは、どんなピアノですか?

田所さん ヤマハはより良いコンサートピアノづくりを目指し、常に試作、開発を続けていますが、今回のショパンコンクールに持ってきたピアノもその中のひとつです。このホールとショパンに合いそうな楽器を選定しました。現地の空気になじませるため、ポーランドに持ち込んだのは半年前で、ポーランドのスタッフに調整してもらいつつ、7月からは、現在イギリスに駐在している前田が通い、準備を進めました。

—この楽器を選んだポイントは?

前田さん 音質の良さ、特に低音にあたたかみのある響きを持っていることです。クリアな音で、音色、音量のバランスが良く、弾きやすいアクションを持っています。

—コンクールの場合、最後にコンチェルトを弾くことになります。特にここの会場は、舞台上で自分の音が聴こえにくく、前回もリハーサルで焦って叩いてしまったとおっしゃっていたコンテスタントがいましたが、そういうところまで見越して楽器を準備されるのでしょうか。

前田さん あまりにも音量がないと、終盤で大きく変えなくてはなりませんが、今回のピアノはもともと音量やパワーの面は申し分なく、コンチェルトまで対応できるピアノでした。そのあたりはコンクールの流れの中で自然に仕上げていくイメージでした。

—一方、特にショパンを弾くには小さな音の表現も大事だと思います。そちらの音作りで心がけたことはありますか?

前田さん ピアニシモでもクリアにホールの後ろまで響いて、ニュアンスがでる音を目指しました。ピアニストたちからも、深みのある音が欲しいというリクエストがありました。少しずつ調整を重ねて、クリアなだけでなく、あたたかい音が出ていたと思います。

—今回は牛田さんもヤマハを選んでいらっしゃいましたが、彼は早くからコンクールへの出場が決まっていましたから、事前にいろいろ率直なご意見も聞くことができたのでは?

田所さん そうですね、以前からお付き合いがあったので、イメージをお伺いすることはできました。的確なご意見をたくさんいただけました。

前田さん 結果的に、セレクションを経てヤマハのピアノを選んでいただいてからも、弾きやすさには問題がないということ、ピアニシモについての希望など、具体的におっしゃってくださるのでとても参考になりました。とくに音色の面では、1次はまずエチュードがあるので弾きやすさが大切だけれど、ステージが進んでいくと曲が大きくなるので、フォルテで音が開くようだと良いというご希望がありましたね。

田所さん 当然、みなさんがそういうレパートリーになるのですから、指摘していただいてありがたかったです。

—オソキンスさんもかなりいろいろリクエストされているところを見かけましたが!

田所さん 前回もヤマハを弾いていただいているので、今回もサポートできて個人的にも嬉しかったです。そういう信頼関係があるからこそ、気がねなくいろいろなリクエストを言ってくださいました。彼からもやっぱり、音が開いていると良いというリクエストがありましたね。

—ホールの中で聴いていらっしゃるとき、調律師さんというのは何を聴いているんですか? …耳のどんな神経を使って聴いていらっしゃるのかなと。

田所さん 私も知りたい(笑)。

前田さん そうですね…全体のバランスと、舞台上で調律している時の印象とのすり合わせをしている感じですね。会場で聴いた後にピアニストのコメントを確認して、またそれとすり合わせることになるのですが。

—ではシンプルに聴いて音の情報を収集するというよりは、組み合わせるための情報のパーツの一つをあそこでキャッチしている感じでしょうかね?

前田さん そうですね、あとは音量的なものとか。音の開き方については、早く開くのか、開き切らないのか、そもそも音がオープンになっているのか、閉じてしまっているのか。もちろんピアニストの弾き方によっても変わりますが、自分がこうしようと思って調整したものに対して、どんな音が鳴っているのかを聴いています。

田所さん 今回は選定の段階でピアノが5台あり、かなり角度を傾けないとステージにのらなかったので、本番であまりに聴こえ方が違うとみなさん困っているようでした。とくに一番上手に置いてある時に弾くと、音の跳ね返りがすごくて全然わからないと。

—先日の調律の風景では、ベテラン調律師の花岡さん(前回のショパンコンクールのメインチューナー)が見ている横で、前田さんが一生懸命作業されている姿が印象的でした。ああいった形で技術が受け継がれているのでしょうか?

前田さん 花岡さんは、何かを教えてくれるというよりは、一緒に作業して感覚を共有してくれる感じですね。アイデアを言い合って、試して、最終的には私がこれにしましょうといって実際にやってみる。大先輩ですが、いろいろな意見を出してくれて、最大限サポートしてくれました。

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(花岡さんに1次の時にお話を伺ったところ、今回のピアノについては、
「前回の経験を踏まえ、ここはもう少し足りないというところを6年で改善してきた。低音に深みがあり、楽器自体の鳴りが良い、プレゼンスがあるピアノを目指してきた。このホールの響きはもともとあたたかいけれど、ピアノの音色に色彩感がないとそこが伝わらない。ダイナミックレンジが広いだけでなく、いろいろな音色が含まれていてこそ、ピアニストもさまざまな表現ができる。その表現に協力できるような楽器を目指した」とのことでした。)

—夜中も作業があり、体力的にきついなか、耳と頭はいつもクリアでないといけないお仕事ですね。

前田さん そうですね、耳が疲れてくると、感覚が変わってきているとふと気づくときがあります。とにかく、空いた時間にしっかり寝ることが大事ですね。私自身は、隙間の時間に寝るのは得意です。

—才能ですね! それと、おそらくすでに次のショパンコンクールも視野に入れていらっしゃると思いますが、今回の経験からどんなことを生かしたいと思いますか?

田所さん 基本を忘れないということですね。技術を磨き、いいピアノを作り、アーティストに寄り添っていきたいと思います。今回は松下が練習室のスケジューリングをはじめとするアーティストの対応をしていました。

松下さん 例えばオソキンスさんは、日中2時間、夜2時間練習するというスタイル。他にも、朝方が好きという方、演奏順が午前だからそれに合わせて練習をしたいという方など、それぞれのライフスタイルにあわせてスケジュールを組み、サポートしました。
2次予選に進んだ4人のピアニストが次に進めないという結果となり、我々もどうお声がけをしたらいいだろうと迷っていたら、ピアニストたちのほうから、先にメッセージをいただいてしまって…。

田所さん ご本人たちが一番辛い時にそんなメッセージをくださるなんて、でもそのくらいの関係を築くことができていたと思うと、ありがたかったです。私たちはショパンコンクールのパートナー企業なので、ホテルの部屋にクラビノーバを入れるなど、コンクール全体の成功をサポートしています。それをベースに、良いピアノを出してピアニストに喜んでいただけることを目指しています。

—ピアニストに精神的な平和を与えるのも重要なお仕事でしょうね。

田所さん 前日にピアニストが言っていたことだとか、本番まで何日かということを考えながら、朝会った時にかける言葉を変えたり、ひとりひとりをサポートしていきました。

—最後に、ショパンにふさわしい音とは、どういう音だと思いますか?

前田さん 2年前にチャイコフスキーコンクールを担当したときは、外にどんどん出していくようなイメージで音作りをしていきましたが、ショパンコンクールのときはどちらかというと、内に込めつつ、出したい時には外に出せる、発散したい時には発散できるという、そんなイメージを目指しました。実際にできていたかは、わかりませんが…。

—ではそれを今後もまた極めていくという?

前田さん そうですね、今回の参加で、他のメーカーの楽器も聴き、新しい観点をたくさん見つけることができました。今後の自分の技術の糧にしたいと思います。

田所さん 念頭にあるのは4年後のコンクールだけでなく、やはり将来一番弾いてもらえる楽器ですから、コンクールを一つの節目として学んでいけたらと思います。こういう場では、各社から本当にすばらしい楽器が集まりますので。
なにより、ここで出会ったピアニストたちは将来世界で活躍するようになるわけで、そういう方たちと接することができることも、とても貴重です。今回も新しい出会いもありました。今まで知っていたピアニストたちとも、より深いお付き合いができるようになりました。コンクールはもちろん結果が出る場ではあるけれど、ここでの経験は、それ自体がメーカーにとってとても有意義なものだと思います。

ショパンコンクールのスタインウェイのお話

大変おまたせいたしました。みなさん興味津々と思われる、ショパンコンクールのピアノについてのお話です。ショパンコンクールからもう2ヶ月近くたってしまいましたが、テレビなどでこれからも番組が放送されるようですので、まだご覧いただけると願いつつ!

まずは今回、1次予選87名中、64名という最も多くのピアニストが選んだ、スタインウェイからご紹介します。
配信をご覧になっていた方は、演奏前のアナウンスでお気づきになっていたかもしれませんが、今回、スタインウェイからは2台のピアノが出されていました(いずれもハンブルク・スタインウェイ)。

1台は、「スタインウェイ479」とアナウンスされていたもの。こちらを選んだピアニストが圧倒的に多く、半数近くである43名が選択。ワルシャワ・フィルハーモニーホール所有の楽器です。ファイナリストでスタインウェイを選んでいた面々…反田さん、小林さん、クシリックさん、エヴァさん、ハオラオさん、パホレッツさんは、みなさんこちらを選んでいました。

ぶらあぼONLINEに掲載のインタビューで、審査員のヤブウォンスキさんが、自ら選んだ楽器だとおっしゃっていたものですね。「これまでで最高というくらいすばらしい。自分で選んだのだから、いわば私のベイビーのようなもの。だからこそ、楽器を叩かれると悲しくて、そんなときはピアノの前からその人をどかしたくなった」とおっしゃっていましたが。

もう1台は「スタインウェイ300」とアナウンスされていたもの。ショパン研究所が所有、7月の予備予選でも使われた楽器です。1次で21名が選択。セミファイナリストだと、角野隼斗さん、ガリアーノさんなどはこちらを選んでいました。

ピアノについて、スタインウェイのベテランアーティスト担当のゲリット・グラナーさんに、コンクールが始まってすぐの頃にお話を伺っていますのでご紹介します。

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—今回の2台のハンブルク・スタインウェイには、それぞれどんな特徴がありますか?

479のほうは、クリアに鳴って、どちらかというとブリリアントでオープンな楽器です。もうひとつの「300」のほうは、よりリリカルで、決して弱くはないけれど親密で豊かな音質を持つ楽器といえると思います。オーケストラの楽器でいうなら、前者はトランペット、後者はチェロという感じですかね。
あるコンテスタントが、とてもおもしろいアイデアを話していました。2台はとってもタイプの違う楽器だけれど、自分はもともとブリリアントな音を持っているから、別の要素を補うために、300のほうを選ぶと。そういう選び方もあるんだなと興味深かったです。

—それでも479のほうを選ぶピアニストが圧倒的に多かったのは、トレンドですかね? もしくは、はやりコンクールのような場ではブリリアントな楽器のほうが選ばれやすいとか。

どちらがいいとか悪いとかではなく、趣味やフィーリングの問題でしょうね。タイプは違うけれど、どちらもとても広いレンジの音を出すことができる、良い楽器です。
当初はショパン研究所が持っているピアノ(300)だけを使う予定だったのですが、ホールになじんだピアノも使ったほうがピアニストにとっていいだろうということで、急遽、両方使用することになりました。
調律師は、前回のショパンコンクールでも調律を担当した、ポーランド人のヤレク・ペトナルスキです。彼はピアニストでもあり、ショパンのレパートリーが演奏できます。このホールを知り尽くし、楽器、そしてピアニストの気持ちも理解している、優れた調律師です。一人で2台のピアノを調律しなくてはならないので、彼も大変そうですけれど。

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途中からはポーランド人の女性調律師さんがアシスタントで入っていましたが、そうはいってもとにかく大変そうでした。確か、幕間のライヴ配信の「ショパントーク」で調律師さんが登場した回、ヤレクさんだけ欠席だったのではないかと思いますが、誰かが今日ヤレクどこいっちゃったの?とグラナーさんに聞いたら「体調が悪いといって帰った。もう体力が限界だったみたい」とのこと。
過労…。幸い翌日には復活されていましたが。
単に体力がきついだけでなく、プレッシャーも相当でしょうから、本当に大変なお仕事です。

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(まだお元気だった1次予選のときの姿)

ちなみにヤレクさんについては、前述のショパンのスタイルにとても厳しいヤブウォンスキさんも、すばらしい腕の調律師だと大絶賛していましたね。
以前ヤレクさんに、ショパンコンクールの調律で最も大切にしていることを尋ねたら、こうおっしゃっていました。

「目指しているのは、とにかく、ショパンのスタイルにふさわしい音。ショパンの演奏に合った、柔らかく歌うことのできる音を作ろうとしている」

ポーランド人の調律師ならではというべきか、とにかく確信に満ちた口調でした。
ピアノの「音」という、いわば音楽における元素のようなものについてもまた、ショパンのスタイルの重要性が求められるのか…。
どこまでも深い世界です。